
「知り添う」という言葉が、これからの社会に投げかけるもの
近年、私たちの身の回りには新しい言葉が次々と生まれています。
多様性、共生、ウェルビーイング、レジリエンス。いずれも現代社会が抱える課題を背景に生まれた言葉ですが、その一方で、「意味が広がりすぎて、何を指しているのかわからなくなった」と感じる人も少なくありません。加えて、何かしら、大きな力が働いている"潮流"の中の言葉も、あるかのように思います。

そうした状況の中で、私達が考え、生み出した「知り添う」という言葉は、少し違った印象を与えます。
強い主張や命令形を含まず、誰かを評価したり分類したりすることもありません。ただ、「知る」と「添う」という二つの行為を静かに並べています。この控えめさこそが、「知り添う」という言葉の大きな特徴だと思います。
「知る」という行為は、知識を得ること、理解しようとすることです。調べる、学ぶ、話を聞く、背景を想像する。どれも能動的な行動です。一方で「添う」という行為は、相手のそばにいること、立場や状況に心を寄せることを意味します。こちらは、必ずしも答えや結論を必要としません。

実はこの二つは、これまで別々に扱われがちでした。
知識を重視すると、感情や生活感覚が置き去りにされることがあります。一方、寄り添いを重視すると、「わかったつもり」になってしまい、具体的な理解が伴わないこともあります。「知り添う」という言葉は、この二つをどちらかに偏らせるのではなく、行き来し続ける姿勢を示しているのです。
この言葉が特に力を発揮するのは、病気や障がい、困難を抱える人をめぐる場面です。
医療や福祉の分野では、正確な知識が重要だと言われます。それは間違いではありません。しかし同時に、「説明しても伝わらない」「理解されているはずなのに、気持ちは置き去りにされている」と感じる当事者の声も多く聞かれます。

「知り添う」という考え方は、「完全に理解すること」を目標にしません。
むしろ、「わからない部分があること」を前提に、それでも知ろうとし、生活のそばに立ち続ける姿勢を肯定します。ここには、専門家と非専門家、当事者と非当事者の間に生まれがちな上下関係を、少しだけ緩める力があります。
さらに興味深いのは、「知り添う」という言葉が、病気や支援の場面だけに限定されない点です。
病気でない人の生活にも、迷いや不安、行き詰まりはあります。仕事、人間関係、家族、老い、将来への不安。そうした中で、誰かの経験や知恵に触れ、それを自分の人生の参考にすることは、誰にとっても意味のあることです。

「知り添う」は、「助ける人」と「助けられる人」という関係を前提にしません。
誰もが、ある分野では経験者であり、別の分野では初心者です。その立場を固定しないからこそ、お互いの知識や経験を持ち寄り、生活の質を高め合うことができます。この点で、「知り添う」は非常に開かれた言葉だと感じています。

一方で、第三者の視点から見ると、この言葉には注意すべき点もあるとも思っております。
それは、意味がやさしく、前向きであるがゆえに、抽象的なスローガンになりやすいということです。「知り添いましょう」という言葉だけが独り歩きし、具体的な行動や場づくりが伴わなければ、この言葉は次第に力を失ってしまいます。

だからこそ、「誰が」「誰に」「どのように」知り添うのかを、具体的に示し続けることが重要になります。昨年の12月のイベント開催時に感じましたが、対話の場なのか、勉強会的講演イベントなのか、日常の小さな関わりなのかと、参加者サイドの判断をも巻き込んでしまいます。ですので、実践と結びついたときに、この言葉は初めて現実の重みを持ちます。その意味で申しますと、広範な考え方があてはまり継続的な「テーマ」としての役割も担っていると思います。

前述しました昨年12月に行われた「知り添う事から始まる未来」というイベントに、多くの方が参加したという事実は、この言葉がすでに多くの人の心に触れていることを示していますし、その静かな「たたずまい」が魅力的なのではないか?という事と同時に、強いメッセージに引っ張られた結果というよりも、「自分も、そうありたいと感じていた」という内側の感覚に、この言葉がそっと触れたからではないでしょうか。

「知り添う」という言葉は、派手ではありません。しかし、人と人との関係の質を、時間をかけて変えていく力を持っています。さらにはコミニケションについての重要性も込められています。
未来は、大きな正解や劇的な変化から始まるとは限りません。知ろうとし、添おうとし、その姿勢を続けること。その積み重ねから、「知り添う事から始まる未来」は、静かに形づくられていくのだと思います。

