― 制度の内側にいない私たちの、静かな違和感 ―

医療、教育、福祉。
この三つの言葉は、社会を支える「善」の象徴のように扱われることが多いように感じます。
どれも必要不可欠で、否定されることのない分野です。

しかし、その一方で、私は長年、ある違和感を抱き続けてきました。
それは、「語られている言葉の多くが、提供する側の視点に偏っているのではないか」という感覚です。

医療は専門職が語り、
教育は教育者が語り、
福祉は制度設計者や支援者が語る。

もちろん、それ自体は自然なことです。
専門性があり、責任があり、現場を担っているのですから。

けれども、実際にそれらを「使う」立場にある人の声は、どこまで届いているのでしょうか。
本当に、同じ言葉として扱われているのでしょうか。

私は、その点にこそ、今、発信する意味があるのではないかと感じています。これまで個別投稿はしてきましたが、まとめながら考えてみます。


医療の場で起きている「静かなすれ違い」

何度も書いてきましたが、医療の現場を再度思い浮かべてみます。

診察室では、医師がカルテを見つめ、専門用語を交えながら説明をします。
患者はうなずき、相槌を打ち、「はい」「わかりました」と答えます。

一見すると、何の問題もないやり取りです。

しかし、診察室を出た瞬間、
「結局、何が言いたかったのだろう」
「自分は本当に理解できたのだろうか」
そんな不安を抱えたまま、帰路につく人は少なくありません。

医師にとっては「説明した」
患者にとっては「聞いた気がする」

この間にある溝は、決して小さくありません。

特に、慢性疾患や難病、あるいは感覚や認知に特性のある人にとって、この溝は日常的なものです。
それでも、患者側は「自分の理解力が足りないのだろう」「忙しそうだから、これ以上聞けない」と、声を飲み込みます。

医療の質を語るとき、技術や最新治療の話題は多く出ます。
しかし、「使う側がどのように感じ、どのように迷い、どこで諦めているのか」という視点は、驚くほど語られません。

この沈黙は、善意の中で生まれた沈黙なのかもしれません。
けれども、その沈黙が積み重なった先に、「医療不信」や「孤立した患者」が生まれているとしたら、私たちは立ち止まる必要があり、声を出す社会的必要性があります。


教育の現場で置き去りにされる「感じ方」

教育もまた、同じ構造を持っています。

教育改革、学力向上、非認知能力、ICT教育。
議論は活発で、言葉も洗練されています。

けれども、教室の中にいる子どもたちは、必ずしもその議論の中心にはいません。

「授業についていけない」
「質問すると空気が変わる気がする」
「頑張っているのに、評価されない」

こうした感覚は、成績表やデータには表れにくいものです。

教師は一生懸命です。
制度も、良くしようと努力しています。

それでも、「教えられる側」「学ばされる側」が感じる違和感は、確実に存在しています。

教育が語られるとき、「理想の子ども像」や「育てたい人材像」は語られても、「今、この瞬間に教室で息苦しさを感じている子」の視点は、後回しにされがちです。

教育を“受ける側”から語ることは、教育を否定することではありません。
むしろ、教育を現実に引き戻す行為だと、私は思います。


福祉という言葉の、あたたかさと距離

福祉という言葉には、やさしさがあります。
支える、守る、寄り添う。

けれども、そのやさしさが、ときに距離を生むことがあります。

支援される側は、「ありがたい存在」である一方で、「弱い存在」「助けられる存在」として固定されがちです。

制度は整っていても、窓口での一言、書類の多さ、説明の仕方ひとつで、心が折れてしまうこともあります。

「制度上は可能です」
「ルールなので仕方ありません」

その言葉の正しさと、使う側の現実は、必ずしも一致しません。

福祉を“使う”という言葉自体に、抵抗を感じる人もいるでしょう。
けれども、生活の中で制度を使い、支援を受けながら生きていくことは、決して恥ずかしいことではありません。

むしろ、「使う側の視点」が語られないままでは、福祉は次第に「制度としては立派だが、使いづらいもの」になってしまいます。


なぜ今、「使う側の視点」なのか

ここまで述べてきたことは、どれも特別な話ではありません。
日常の中に、静かに存在していることばかりです。

それでも、なぜ今、この視点が必要なのでしょうか。

それは、社会が「正しさ」や「効率」を優先しすぎているからかもしれません。
正しい制度、正しい運用、正しい説明。

けれども、人は正しさだけでは生きられません。
不安になり、迷い、傷つき、納得できないまま前に進むこともあります。

「使う側の視点」とは、未完成で、曖昧で、ときに矛盾した感情を含んだ視点です。
だからこそ、扱いづらく、表に出にくいのです。

しかし、その曖昧さの中にこそ、社会を少しだけやわらかくするヒントがあるのではないでしょうか。


声を上げるというより、「言葉にしてみる」

私は、「使う側の視点を発信する」と言うとき、声高な批判をしたいわけではありません。
誰かを責めたいわけでもありません。

ただ、
「こう感じた」
「こういう場面で、戸惑った」
「うまく言えないけれど、違和感があった」

そうした言葉になりきらない感覚を、丁寧にすくい上げること。
それ自体に意味があると考えています。

医療も、教育も、福祉も、人と人の間で成り立つものです。
制度や専門性の前に、感情を持った人間がいます。

“使う側”の視点から語ることは、社会に対して「完璧でなくてもいい」「わからないままでもいい」と伝える行為なのかもしれません。

そしてその余白が、次の対話を生み、次の改善につながっていく。
私は、そう信じています。