
――共感神話を問い直すコミュニケーション――
「人と人は分かり合えるはずだ」
私たちは、いつの頃からか、この前提を当たり前のように信じるようになりました。学校教育でも、職場でも、家庭でも、「相手の気持ちを考えましょう」「共感が大切です」という言葉が繰り返されます。それ自体は決して間違いではありません。しかし一方で、この“共感至上主義”とも言える考え方が、かえって人間関係を苦しくしている場面が増えているように感じます。

「こんなに説明したのに、どうして分かってくれないのか」
「気持ちを理解してほしいだけなのに」
「共感してもらえない自分は、冷たい人間なのだろうか」
こうした思いに心当たりのある方は、決して少なくないはずです。

■ 人は本当に「分かり合える」存在なのか
そもそも、人は完全に分かり合える存在なのでしょうか。
年齢、育った家庭環境、受けてきた教育、経験した成功や失敗、健康状態、価値観。これらがまったく同じ人間など、存在しません。同じ出来事を体験しても、感じ方や受け取り方は人それぞれです。
例えば、同じ言葉を投げかけられても、ある人は励まされたと感じ、別の人は傷ついたと感じることがあります。話し手の意図と、受け手の解釈が一致しないことは、むしろ自然なことなのです。
それにもかかわらず、「分かり合えるはず」「分かり合えないのは努力不足」という前提で人間関係を築こうとすると、どうなるでしょうか。そこには、失望や怒り、諦めといった感情が生まれやすくなります。

■ 共感が「義務」になるとき
近年、「共感力」という言葉が強調されるようになりました。確かに、相手の立場に思いを馳せる姿勢は大切です。しかし、それが義務や評価基準になった瞬間、共感は優しさではなく圧力へと変わります。
「なぜ共感できないの?」
「それでも人の心があるの?」
こうした言葉は、一見すると正論のようでいて、相手を追い詰める刃にもなり得ます。人は、自分が経験していない痛みや苦しみを、完全に理解することはできません。それを無理に理解したふりをすることは、かえって不誠実とも言えるでしょう。
本来の共感とは、「分かったつもりになること」ではなく、「分からないかもしれないと自覚すること」から始まるのではないでしょうか。

■ 「分かり合えない前提」を持つということ
ここで提案したいのが、「わかり合えない前提で付き合う」という考え方です。
これは、人を突き放す態度ではありません。むしろ、その逆です。
「あなたのすべては分からない」
「でも、分かろうとする努力は続けたい」
この姿勢は、過度な期待を手放し、相手を一人の独立した存在として尊重することにつながります。
分かり合えない前提に立てば、「どうして分かってくれないのか」という怒りは、「そう感じるのは自然だ」という理解へと変わります。そしてその理解は、自分自身にも向けられるようになります。

■ コミュニケーションは「一致」ではなく「調整」
私たちは、コミュニケーションを「気持ちを一致させること」だと誤解しがちです。しかし、現実の人間関係において大切なのは、一致ではなく調整です。
意見が違ってもいい。
感じ方が違ってもいい。
価値観が合わなくてもいい。
そのうえで、「どこまでなら一緒にいられるか」「どうすれば衝突を減らせるか」を探っていく。それが成熟したコミュニケーションです。
職場であれ、家庭であれ、地域社会であれ、すべての人と深く分かり合う必要はありません。適切な距離感を保ちながら、必要なところで協力できれば、それで十分なのです。

■ わかり合えなさが生む、もう一つの優しさ
「分かり合えない」という事実を受け入れると、不思議なことに心が軽くなります。相手を変えようとする無理な努力を手放せるからです。
そしてもう一つ、大切な変化が起こります。それは、「沈黙」や「余白」を許せるようになることです。何でも言葉にし、何でも理解し合おうとする関係は、時に息苦しさを伴います。分からないまま、距離を保ったままでも、関係は続けられる。そう考えられるようになると、人との付き合い方はぐっと楽になります。

■ それでも、人と関わり続けるために
「わかり合えない前提で付き合う」という考え方は、冷たさではありません。むしろ、人間の限界を受け入れたうえで、それでも関わり続けようとする、現実的で誠実な態度です。
完全な共感を目指さなくていい。
理解できない自分を責めなくていい。
相手もまた、同じように不完全な存在だと認めればいい。
その先にあるのは、無理のない、持続可能な人間関係です。

分かり合えないからこそ、話し続ける意味がある。
分かり合えないからこそ、相手を尊重できる。
共感神話を一度手放したところから、私たちのコミュニケーションは、よりしなやかで、より人間らしいものへと変わっていくのではないでしょうか。
