予防医療という「時代の流れ」と私たちの生き方

今、医療界で声高に取り上げられているキーワードが「予防医療」です。これは単なる流行語ではなく、社会構造そのものが変わりつつある中で、医療の役割が治療中心から「健康を守る仕組み」そのものへと広がっていることの表れだと感じています。少子高齢化、医療費の増大、生活習慣病の蔓延、そして価値観の多様化――こうした社会環境の変化が、予防医療を避けて通れないテーマにしています。

 予防医療と聞くと、「健康診断を受けること」や「ワクチンを打つこと」くらいを思い浮かべる方も多いかもしれません。しかし、本来の予防医療ははるかに広く深い概念です。その最たる例が、歯科の世界で起きた大変革です。かつて歯科クリニックは虫歯を治療する場所でした。痛みが出てから行き、削り、詰め、また痛くなったら通う。この繰り返しが“当たり前の医療のかたち”でした。

 しかし今や、歯科の主流は「虫歯や歯周病をつくらない」方向へ大きく舵を切りました。定期検診やクリーニング、フッ素塗布、食習慣の改善指導など、日常生活の中で病気の発生を防ぐ仕組みが整ってきています。治療中心から予防中心へ──この転換は、医療者も患者も双方の意識が変わったことによって成立しました。このことは本サイトでも「社会構造の変化によるリデザイン化」として何度も取りあげてまいりました。

 この歯科の変化は、いま他の医療分野でも静かに、しかし確実に広がりつつあります。たとえば循環器内科を見ても、以前は心筋梗塞や脳卒中を起こしてから病院に駆け込むケースが多く見られました。しかし現在は、血圧・血糖・脂質のコントロールの重要性が強調され、生活習慣病予防や早期介入が進んでいます。心不全に対しても“なってから治す医療”ではなく、“ならないための医療”へと変わろうとしています。

 また、精神科領域においても予防医療の考え方が重要視されてきました。ストレスチェック制度の導入、メンタルヘルス研修、企業での産業保健体制の整備など、「心が壊れてから診る」から「壊れない環境をつくる」への発想転換が起きています。特に若い世代では、うつ病や不安障害などの精神疾患が社会問題化する中、早期相談やオンラインメンタルケアなど新たなサービスも拡大しています。

 整形外科でも同じ流れが見られます。膝や腰に痛みが出てから治療するのではなく、「正しい動き方」「筋力維持」「姿勢づくり」が強調され、理学療法士による運動プログラムの普及が進んでいます。転倒防止教室やロコモティブシンドローム予防指導は、すでに地域医療の基盤となりつつあります。ですので、その変化に対応できない在来型の整形クリニックは今後は淘汰されていく運命と思っています。

 こうした流れを見るたびに、「予防医療とは、医療が“生活に入り込む”ことそのものではないか」と私は感じます。つまり、治すために行く病院ではなく、日々の生活の質を維持するためのパートナーとしての医療。医療の主役が医師から患者へ移り、患者自身が自ら健康を守る主体になるという発想です。その意味で申しますと各々の「医療リテラシー」向上も必要になってきています。

 しかし、予防医療の本当の課題は、制度や技術よりも“人の意識”にあります。歯科の例でもそうでしたが、「痛くないと行かない」という意識を「痛くならないように行く」に変えるのは容易なことではありません。生活習慣の改善にしても、分かっていても続けられないのが人間というものです。まさにここに、これからの医療が抱える最大のハードルがあると私は感じています。

 では、この意識の壁をどう超えていくのか。私はその鍵のひとつが「コミュニケーション」だと思います。予防医療が浸透するためには、医療者と患者が対等な関係で話し合い、生活の背景や困難を理解したうえで“現実的な予防策”を一緒に探していくことが欠かせません。この事もまた本サイトでは繰り返し繰り返し提言してきました。患者側もまた、「相談できる」「安心できる」「受け止めてもらえる」医療環境でなければ、日々の小さな変化を伝えることは難しいでしょう。だからこそライフトレーシングマップ®の必要性も説いてきました。

 医療の質は専門性だけで決まるものではありません。日常の中で信頼できる相手がいること、安心して話せる空気があること、そして自分の身体のことを理解し合える関係性が構築されていること――その積み重ねが予防医療の結果として現れるのだと思います。

 また、自治体や地域コミュニティとの連携も重要です。健康教室やウォーキングイベント、食育活動、フレイル予防講座など、地域で行われる活動は実は予防医療そのものです。医療機関が地域の活動と積極的に連携することで、医療がもっと身近で“生活の延長線上にあるもの”として受け入れられるようになります。

 最近では、デジタル技術が予防医療に新しい可能性をもたらしています。スマートウォッチやアプリによる健康管理、オンライン診療、AIによるリスク予測など、日常の中に医療が寄り添う形が加速しています。これらは「自分の身体を知る」きっかけになり、自分の健康を自分で守る姿勢を後押ししてくれます。

 もちろん、すべての人が同じようにデジタルに馴染めるわけではありません。高齢者や障害のある方にとっては、むしろ新たな壁になりかねません。だからこそ、予防医療の本質は技術ではなく、人に寄り添う仕組みづくりにあるのだと思います。誰も取り残さず、自分らしく生きられるためのサポートとしての医療。その姿が、予防医療という言葉の本当の意味であるように感じます。

 医療の未来は、病気の治療だけでは語れません。これからは、病気の前段階、さらにその前の“生活”という領域にまで目を向けられるかどうかが問われます。予防医療の推進は、医療の高度化ではなく、人間らしい暮らしを支えるための社会の進化です。

 昔の歯科が大きな転換を遂げたように、今の医療全体もまた新しいフェーズに入りつつあります。治療から予防へ、そして生活へ。医療は、私たちの生き方そのものを支える存在に変わろうとしています。これからの予防医療は、“自分の人生をよりよく生きるための知恵”として、社会全体に広がっていくのだと感じています。