
社会貢献活動の周辺に潜む「利益誘導」と現代社会の影
社会貢献活動を長く続けておられる方なら、一度は経験されたことがあるのではないでしょうか。企業や個人からアポイントの連絡が入り、「ぜひ協力させてほしい」と前向きな言葉が並ぶ。ところが話を聞いてみると、相手の目的はあくまで自社の宣伝や利益獲得であり、社会的意義とは名ばかりの“利用”を意図した内容だった──。中には、最初からこちらの善意を逆手に取るような、詐欺まがいの相談さえ紛れ込んでいる。
残念ながら、こうした構図は昔から一定数存在してきました。しかし、現代はその頻度が格段に増えたと感じられるのではないでしょうか。社会貢献団体の周りには、善意と欺瞞、協力と搾取が常に入り混じっています。それは「善意の社会」だけではなく、「善意を狙う社会」が同時に存在するという厳しい現実でもあります。また逆パターンの事例もあります。もちろん、あってはならないことですが、行政から委託事業の発注を約束されたうえで、NPO法人の立ち上げを要請されたケースもあります。そのNPO法人は現存し活動を続けています。勿論、委託事業は随意契約で毎年度発注され続けていますし、そこに群がる善意の顔をした人達もうごめいています。民民も官民も同じ構図と申しますか、各々の利益誘導のため(官→国からの地方自治体への補助事業消化→担当者レベルの保身→利益)の活動になっている現状があります。
では、なぜ現代社会ではその傾向が強まっているのでしょうか。そこには、教育、経済、価値観、家族制度、情報環境など、多層的な要因が絡み合っています。現代社会が抱える課題と、これから必要とされる視点について考えてみたいと思います。

■善意を食い物にする構造はなぜ増えてしまったのか
① 経済状況の不安定化がもたらす「倫理の揺らぎ」
まず、経済の停滞や不安定化は、社会全体の倫理観に影響を及ぼします。景気が長期的に回復しない状況が続くと、企業も個人も「目の前の利益を確保したい」という短期志向に陥りやすくなります。余裕がなければ、倫理的判断よりも生存戦略が優先されます。
結果として、社会貢献という“長期的視点”や“公共性”が軽んじられ、「使えるものは使う」「慈善の場は商機」といった発想が忍び込むのです。本来、企業の社会的責任(CSR)は倫理や理念と結びつくべきですが、一部ではすっかりマーケティングの一手段に矮小化されてしまっています。
② 家族・地域コミュニティの弱体化による個人主義の加速

次に、家族制度の変化や地域コミュニティの希薄化も大きな要因です。かつては、地域の中で自然と“利他”や“思いやり”が育まれる環境がありました。困った人がいれば助ける。恩を受けたら返す。そうした経験の積み重ねが、利他的行動や公的精神を支えていました。
ところが、核家族化や単身世帯の増加、転職や移動の激しさによって、地域のつながりは弱まりました。人々は“自分中心”で自己完結せざるを得なくなり、それが世代を超えて受け継がれ、結果的に「公共や他者のために動く」という感覚が薄くなってしまったのです。
社会貢献団体を訪れる人の中には、その空白を埋めるために「つながり」や「承認」を求めてくる人もいますが、残念ながら同じ構造から“安易な利益獲得の場”として利用するケースも生まれています。

③ 教育で育ちにくくなった「公共性」や「倫理の内面化」
教育のあり方も見逃せません。現代の教育では、多様性や主体性が強調される一方で、公共心や倫理観の育成が以前ほど重視されていないと感じる場面があります。もちろん、学校教育が悪いという単純な話ではありません。しかし、子どもたちを囲む環境全体が「成功=成果や利益」と捉える風潮を強める中で、利他的な行動を自然に身につける機会は確実に減少しています。
“道徳心”は教えるだけでは身につきません。大人がどう生き、どんな価値観を示すかが重要です。社会全体が不安定な中で、子どもたちは「利他より利己が有効」という現実の空気を敏感に察してしまいます。結果として、社会貢献の世界でも本質より効率や利益を優先する発想が横行しやすくなるのです。
④ 情報過多の時代が生む「巧妙な善意ビジネス」
また、情報社会の発展は人々を便利にする一方で、悪意ある者にとっては絶好の土壌にもなりました。SNSや広告の手法はますます巧妙になり、善意を装った「協力依頼」「支援プログラム」「提携提案」が氾濫しています。
社会貢献活動を行う団体は、外から見ると「弱者」「善意」「資金」が集まりやすい場所に映ります。そのため、狙いを定めたビジネスや詐欺が接近しやすくなるのです。善意の世界を利用する構造は、情報技術によって加速度的に拡大したと言えるでしょう。

■「協力」を餌にした利益誘導が増える現代の空気感
現代の社会には、利益誘導に対するハードルが下がっている空気があります。誰もがSNSで情報を発信し、影響力を持つようになった結果、“話題性”や“拡散力”が価値と直結するようになりました。
その中で、社会貢献団体は「信用があり、クリーンで、社会的価値が高い存在」と見なされています。つまり、うまく利用できれば企業イメージの引き上げ、商品の販促、SNSでの話題化など、多くのメリットが期待できるのです。こうした構造の中で、“協力したい”という前向きな言葉を包装紙にしながら、本音は自社の利益確保だけという人々が紛れ込むのは、ある意味で自然な流れとも言えます。
しかし、本来の社会貢献とは「誰かのために動くことで、自分も社会も良くなる」という循環をつくる営みです。利己のためだけにアプローチしてくる行為は、循環を断ち切り、むしろ社会貢献の価値そのものを損ないます。

■では、これからの社会に何が必要なのか
こうした現状を踏まえると、社会が求めているのは「利他と利己の健全なバランス」を取り戻すことではないでしょうか。利己心そのものが悪いわけではありません。しかし、それが過剰になり、他者の善意を利用する方向へ傾くと、社会は脆くなります。
今求められているのは以下のような視点と思います。
- 教育や地域で“公共性”を育て直すこと
- 企業が利益だけでなく社会的意義を真剣に考えること
- 個人が情報の真偽を見抜く力をつけること
- 社会貢献団体自身が自立性と透明性を高めること。特に官からの委託業者は必要。
社会貢献団体は「善意を守る砦」であると同時に、「善意につけ込まれやすい脆弱な存在」でもあります。そのため、毅然と断り、自立的な基盤を築く力がいっそう重要になっているのだと思います。

■最後に:それでも社会をあきらめないために
社会貢献の現場を長く見てこられた方ほど、善意の裏側に潜む身勝手さや欺瞞に敏感にならざるを得ません。現代が特にその傾向を強めているという印象は、決して気のせいではないと思います。
しかし同時に、利他の力、思いやりの力、誠実に向き合う人たちの存在もまた確かです。それらが完全に失われたわけではなく、むしろ多様化した社会の中で、そこに新しい価値を見いだす若者や市民も増えています。

社会が複雑になるほど、“誠実に生きる人の存在”は希少になり、価値が高まります。利益誘導の波が押し寄せてもなお、志を持って社会貢献を続ける人たちがいること。それこそが、社会がまだ健全であることの証なのだと思います。
そして、善意を信じ続けられる社会は、必ず再生します。社会貢献を続ける人々の姿が、その最前線に立っているのだと私は感じています。

