この数年、急激にこの言葉を聞くようになってきました。色々と書かせて頂きますが、あくまでも私見でありまして、一応勉強しました内容にこれまでの私の経験、周囲の人達の意見、行動等々参考にしまして、現在の時点で考えている事が内容になります。ご了承ください。

まずジェンダーステレオタイプという言葉があって、この言葉から入ります。ジェンダーステレオタイプとは男性や女性に対して社会的・文化的に期待される典型的な特徴や役割を指します。これらは、性別に基づいた固定観念であり、社会が性別ごとにどのように振る舞うべきか、何をすべきか、何をすべきでないかといった考えを、言い方が良いのかダメななのか分かりませんが、、、押し付けるものです。

例えば、典型的なジェンダーステレオタイプとして、男性は「強く、感情を表に出さないリーダーシップを発揮するべき」という考え方や、女性は「家庭を守り、優しく、他者に尽くすべき」という固定観念があります。このようなステレオタイプは、時に人々の自由な選択や成長を制限する可能性があり、個々の能力や希望を無視してしまうこともあります。

また、ジェンダーステレオタイプは、教育や職場、メディア、広告などさまざまな場面で強化されることが多く、意識的・無意識的に社会全体に広がります。近年では、こうした固定観念に対しての批判や、ジェンダーの多様性を尊重する動きが広まりつつあります。たとえば、女性がリーダーシップを発揮することや、男性が家庭を支える役割を担うことが当たり前になりつつある社会的な変化も、ジェンダーステレオタイプの改善に向けた一歩と得理解できると思います。

こうしたステレオタイプにとらわれず、性別にかかわらず人々が自由に自己実現できる社会を目指すことが、現代において重要な課題となっています。つまり、ジェンダーフリーな世界を目指すという事ですね。

しかし、その潮流が起こってきているとは言え、ジェンダーフリーを推進する社会的な動きが強まる一方で、家庭内での安定した生活や伝統的な役割を望む女性も多くいる現実があります。これに対して、声高にジェンダーフリーを進めることが、場合によっては「マッチポンプ」状況を生んでいる可能性もあると思うのですよね。貴方はどう思いますか?その部分を考えてみますと、いくつかの理由が考えられます。

価値観の多様化と個々の選択尊重の難しさ
社会全体としてジェンダーフリーを進めることは、性別にかかわらず個々の自由を尊重することが目標です。しかし、その過程で、伝統的な価値観や役割を大切にする人々が「時代遅れ」や「非進歩的」と見なされることがあります。たとえば、家庭内での安定や育児を重要視する女性たちは、時には社会から「もっとキャリアを追求すべきだ」というプレッシャーを感じるかもしれません。ジェンダーの自由を推進するあまり、その人が選びたい生活スタイルを否定するような風潮が生じている場合、結果として本来の目的から外れた形になってしまいます。

社会的期待のギャップ
女性がキャリアを追求することが奨励される一方で、家庭内での役割や家事育児に関する社会的期待が依然として根強いです。このギャップは、女性に過剰な負担を強いる結果になることがあります。つまり、外でのキャリアと家庭内での役割の両方を完璧にこなすことが求められるという、二重のプレッシャーです。この「両立」の重荷が増すことで、結果的に多くの女性が伝統的な役割を選ぶことに戻ってしまうかもしれません。これがジェンダーフリーを声高に進めることと矛盾しているように見える部分ではないでしょうか?

ジェンダー平等の目標と現実のバランス
理想的には、全ての人が性別に関係なく自分の選択を自由にできる社会が望ましいです。しかし、その過程で、実際に多くの人が望む生活スタイルや価値観を無視することは、逆に反発を招きます。女性が家庭に入り、家族と安定した生活を築くことを望む場合、その選択も同様に尊重されるべきです。ジェンダーフリーの推進が「全員がキャリアを追求するべきだ」という単一の価値観に変わってしまうと、それもまた新たな不均衡を生むでしょう。

私見としてのバランス
個人的には、ジェンダーフリーや平等の目標は重要ですが、それが一方向に偏らないように注意することが大切だと思います。つまり、女性がキャリアを追求する権利を尊重する一方で、伝統的な家族生活や家庭内での安定を望む人々の選択も同様に尊重されるべきです。多様な生き方を支援し、どちらかの価値観が他方を強制したり否定したりするのではなく、全ての選択肢を対等に評価する社会が理想です。その様に考えます。

ジェンダー平等の推進は、選択肢を広げることが目的であって、特定の生き方を全員に求めるものではないはずです。結果として、「女性だから家庭に入るべきだ」というステレオタイプも、「女性だからキャリアを追求すべきだ」という新たな圧力も避け、個々のライフスタイルの多様性を認める柔軟な社会が求められるのではないでしょうか。

再度申しますが、あくまでも私見で・・・現在の世相として、従来型の女性の考え方がマイノリティーのような立ち位置になり、意見も言いづらくなっているような感じがしてなりません。勿論、その事を非難する権利は誰にもないわけですが、そこがいわゆる『推進派』みたいに称する人達から見れば、我慢が出来ないところかもしれません。さらに入りますが、昨年、急に理解増進のために歪な”形”で法律化されましたが、LBGTQの件もそんな風潮はあるとは思います。

この問題は、社会の進歩と多様性の尊重という方向性が推進される中で、逆に一部の人々の選択肢が抑圧されていると感じられることと関連しています。

  1. 多様性を尊重することの意図とその影響
    現代社会では、ジェンダー平等やLGBTQの権利を守る動きが加速しており、それ自体はとても重要なことです。しかし、その過程で、ある種の「進歩的」とされる価値観が強調されすぎることがあり、従来型の価値観を持つ人々が疎外されたり、声を上げにくくなっているのも現実の一部です。特に、伝統的な家庭観や性別役割に価値を見出す女性たちが「時代遅れ」や「進歩に反する」と見なされることがあれば、そういった人々は自分の選択を公然と主張することにためらいを感じるでしょう。

この部分が「推進派」や進歩的な考え方を強く推進する人たちの目から見れば、忍耐できないものとして映るのかもしれません。彼らにとっては、あらゆる形の不平等や抑圧を排除し、全ての人に平等な権利を与えようとする意識が強いため、それに反する価値観やライフスタイルが受け入れ難いと感じることもあるでしょう。(言わば、それも自由ですが強要はできません。)

  1. 多様性を尊重しながら、異なる選択を認める難しさ
    何度も申しますが、私自身の意見として、多様性を尊重する社会であればこそ、あらゆる選択肢を対等に認めることが必要です。つまり、進歩的な価値観を推進するだけでなく、伝統的な価値観を持つ人々の権利や選択も尊重されるべきです。ジェンダーフリーやLGBTQの権利が声高に叫ばれる一方で、それに適応しない考えや価値観を持つ人々が黙らされるような状況が生まれるとしたら、それは多様性を追求する目的と矛盾してしまいます。

社会の中には、様々な価値観やライフスタイルが存在することが自然であり、全ての選択が平等に尊重されるべきです。つまり、キャリアを重視する女性も、家庭を優先する女性も、それぞれが自分の道を自由に選べる社会が理想です。また、LGBTQの権利擁護も大切ですが、それと同時に異なる意見を持つ人々を一方的に否定するのではなく、対話の場を持つことが重要です。加えて、考えの押し付けもいけない事です。

  1. 進歩的な運動の「正しさ」の圧力
    進歩的な運動に共通する現象として、正義感が強くなりすぎると、「自分たちが正しい」という感覚が先行し、他者の意見や選択を聞き入れにくくなることがあります。LGBTQやジェンダー平等の運動に限らず、どのような社会運動にもこの傾向が見られる場合があり、それが「意見を言いづらい空気」を作り出す原因の一つかもしれません。

進歩的な活動家たちは、不平等を解消しようとする強い意志を持っており、それ自体は非常に価値がありますが、それが結果的に一方的な圧力として機能してしまう場合、社会全体の多様性の尊重とは逆行する危険性があります。理想としては、異なる意見や選択肢を尊重しつつ、対話を通じて相互理解を深めることが重要です。

  1. 結論: 真の多様性への道
    結局のところ、現代社会における多様性とは、異なる価値観や選択肢が共存できる社会を指すべきだと思います。進歩的な運動が強くなると、それに合わない選択肢や価値観を否定する動きが出てしまうことがある一方で、その反発が新たな対立を生む可能性があります。ジェンダーフリーやLGBTQの権利は、全ての人が自由に生きる権利を守るためのものであるべきですが、同時にそれが他者の自由な選択を奪うような結果にならないよう、バランスの取れた議論や対応が求められます。