~その一言が、人を苦しめることもある~

私たちは毎日のように「普通」という言葉を耳にします。

「普通そうするよね。」
「普通に考えれば分かる。」
「普通ありえない。」
「普通に嫌なんだけど。」

最近では「普通に」という言葉が、まるで句読点のように会話へ入り込んでいます。

もちろん、その多くは深い意味を持たない口癖でしょう。

しかし私は、この「普通」という言葉が少し気になっています。

なぜなら、「普通」という言葉ほど曖昧でありながら、人を傷つける力を持った言葉は少ないからです。

「普通」は、誰が決めたのか

少し考えてみてください。

「普通」とは、一体誰が決めたのでしょうか。

法律でしょうか。

学校でしょうか。

会社でしょうか。

家族でしょうか。

実は、そのどれでもありません。

多くの場合、「普通」とは、自分が育ってきた環境や経験の中で自然に出来上がった価値観なのです。

ある家庭では、

「家族で毎日夕食を食べるのが普通。」

別の家庭では、

「仕事が忙しいから、家族が揃うことはほとんどない。」

どちらも、その家庭では「普通」です。

都会で育った人と地方で育った人では普通が違います。

一人っ子と兄弟姉妹が多い家庭でも違います。

日本と海外ではなおさら違います。

つまり、「普通」とは絶対的な基準ではなく、自分の人生の積み重ねから生まれた、一つの物差しに過ぎないのです。

「普通」が正義になるとき

問題は、その物差しを他人にも当て始めたときです。

「普通は連絡するよね。」

「普通は謝るよね。」

「普通なら分かるでしょう。」

この言葉には、

「私は正しい。」

という意識が、知らず知らずのうちに含まれてしまいます。

そして相手には、

「あなたは普通ではない。」

というメッセージとして伝わります。

もちろん、言った本人に悪意はないでしょう。

だからこそ厄介なのです。

善意で言った「普通」が、人を深く傷つけることがあります。

「普通」は時代によって変わる

もっと面白いことがあります。

「普通」は、時代によっても大きく変わります。

ほんの数十年前。

携帯電話はありませんでした。

スマートフォンもありません。

女性が結婚後に家庭へ入ることが「普通」と言われた時代もありました。

今では働き方も家族の形も実に多様です。

同性婚について議論される社会になり、リモートワークも一般的になりました。

つまり、「普通」は決して固定されたものではありません。

社会が変われば、普通も変わる。

だから、「普通だから」という理由だけで人を評価することは、とても危ういのです。

病気になると、「普通」はさらに遠くなる

私は患者会の活動を通じて、多くの方と出会ってきました。

難病を抱えた方。

障害のある方。

外見では分からない病気と向き合っている方。

そうした方々が最も苦しむ言葉の一つが、

「普通に見える。」

です。

「普通に歩いているよね。」

「普通に元気そう。」

「普通に仕事できるじゃない。」

しかし、その「普通」の裏側では、

強い疲労と痛みを抱え、

限界まで頑張っている人がたくさんいます。

外から見える姿だけが、その人のすべてではありません。

「普通」という言葉は、ときに見えない苦しみまで消してしまうことがあります。

SNSは「普通」を増幅させる

現代では、SNSが新しい「普通」を作っています。

友達はたくさんいるのが普通。

恋人がいるのが普通。

結婚するのが普通。

旅行へ行くのが普通。

おしゃれな生活を送るのが普通。

毎日充実しているのが普通。

でも、それは本当に普通なのでしょうか。

私たちが見ているSNSは、その人の人生の「ハイライト」です。

楽しい瞬間だけを切り取った写真や動画を見続けることで、

「みんなは普通に幸せそうなのに、自分だけ違う。」

そんな錯覚が生まれてしまいます。

比較する相手が増えれば増えるほど、「普通」という幻想は強くなっていきます。

「普通」は思考停止の言葉にもなる

もう一つ気になることがあります。

「普通だから。」

この一言で、考えることをやめてしまう場面が少なくありません。

「昔からそうだから。」

「みんなそうだから。」

「普通そうするから。」

本来なら、

「なぜ?」

と考えるべきところを、「普通」が思考を止めてしまいます。

社会は、いつも「普通ではなかった人」が変えてきました。

新しい発明も。

新しい制度も。

新しい文化も。

最初は「普通じゃない」と言われながら生まれてきたのです。

もし誰もが「普通」に従うだけなら、社会は一歩も前へ進まなかったでしょう。

「普通」ではなく、「その人」を見る

では、私たちはどうすればよいのでしょう。

私は、「普通」を捨てる必要はないと思います。

自分の中に「普通」があること自体は自然なことです。

ただ、その普通を唯一の正解にしないこと。

「私にとっては普通だけれど、この人には違うかもしれない。」

そう考えられるだけで、人との関係はずいぶん優しくなります。

大切なのは、

「普通かどうか。」

ではありません。

「その人は、どう感じているのか。」

「どんな背景があるのか。」

「なぜ、その考えに至ったのか。」

そこへ関心を向けることです。

相手を理解しようとする姿勢が、「普通」という壁を越える第一歩になります。

「知り添う」という社会へ

私たちの活動の中で、何度も繰り返し大切にしている「知り添う」という考え方があります。

知らないから、誤解が生まれる。

決めつけるから、距離ができる。

でも、知ろうとすることで、人は少しずつ寄り添うことができます。

「普通」という言葉は、とても便利です。

しかし、その便利さの裏には、相手を自分の物差しで測ってしまう危うさも潜んでいます。

だからこそ、「普通」という言葉を口にする前に、一度だけ立ち止まってみませんか。

「これは本当に普通なのだろうか。」

「それとも、私にとっての普通なのだろうか。」

その問いを持つだけで、見える景色は変わります。

誰もが違う人生を歩み、違う経験を積み重ねています。

だから「普通」が違うのは、むしろ当たり前なのです。

私たちが目指したい社会は、「普通」に人を合わせる社会ではありません。

一人ひとりの違いを知り、その違いを受け止めながら支え合える社会です。

「普通」という言葉を少しだけ手放し、「あなたはどう思う?」という問いを増やしていく。

その小さな対話の積み重ねが、誰もが安心して生きられる社会への第一歩になるのではないでしょうか。