~「誰かがやるだろう」から「私にできること」へ~

もうずいぶん前になりますが、まだこの活動を本格的にする前のお話です。

駅のホームで、白杖を持った高齢の男性が立っていました。電車が到着し、人の流れが一気に動き出します。男性は一歩踏み出そうとして、少し足を止めました。私は数メートル離れた場所にいて、その様子が視界に入りました。

「誰かが声をかけるだろう。」

そう思いながら、私は持っている本に目を落としました。けれど、次の瞬間に胸の奥に小さな違和感が残りました。周囲には多くの人がいるのに、誰も動かない。そのまま電車は発車し、男性はホームに残りました。

私は座席に座ってからも、なぜか落ち着きませんでした。「困っていたのは見えていた」「助けるべきだとまでは思わなかった」「でも、少し気になった」。その曖昧な感覚が、ずっと心に引っかかっていたのです。

そうなんですね、、私たちは日常の中で、こうした「小さな違和感」に何度も出会っています。

職場で誰かが孤立している。
学校で一人だけ会話に入れていない人がいる。
SNSで明らかに傷ついている投稿を見る。
地域の活動に参加する人がいつも同じ顔ぶれである。
病気や介護で疲れ切っている人が「大丈夫です」と笑っている。

そのたびに、私たちの心には小さな波が立ちます。しかし多くの場合、その波はすぐに静まります。「自分が出る幕ではない」「専門家がいる」「誰かが気づいているはずだ」。そうやって私たちは、知らず知らずのうちに「傍観者」の席に座り続けてしまうのです。

心理学には「傍観者効果」という言葉があります。周囲に人が多いほど、一人ひとりが行動しにくくなる現象です。責任が分散し、「自分でなくてもいい」と感じてしまう。駅のホームで私が動けなかったのも、まさにその一例だったのだと思います。

けれど私は最近、この現象を知識として理解するだけでは足りないと感じています。問題は「なぜ人は動けないのか」だけではなく、「どうすれば動けるようになるのか」にあります。

ある日、地域の交流会で一人の若い女性と話をしました。彼女は長い間、難病の母親を支えてきたそうです。「本当はしんどかったんです。でも、誰にも言えなかった」と彼女は静かに話しました。周囲からは「親孝行だね」「あなたがいるから安心だね」と言われ続け、弱音を吐く場所がなかったと言います。

「助けてほしいって言ったら、迷惑かなと思っていました。」

その言葉を聞いたとき、私ははっとしました。私たちは「困っている人が声を上げれば助ける」と考えがちです。しかし実際には、最も苦しい人ほど声を上げられないことがあります。だからこそ、周囲の「小さな違和感」に気づくことが大切なのです。

もちろん、すべての問題を一人で解決することはできません。私たちは医師でも、カウンセラーでも、行政でもない場合がほとんどです。では、何もできないのでしょうか。私はそうは思いません。

「私にできること」は、案外小さいものです。

「大丈夫ですか」と声をかける。
「最近どうですか」と尋ねる。
「話を聞きますよ」と伝える。
地域のイベントに一度だけ参加してみる。
困っている人の情報を適切な支援先につなぐ。

これらは劇的な行動ではありません。しかし、人が孤立から抜け出すきっかけは、往々にしてこうした小さな一歩から始まります。

私たちの社会は、派手な成果や大きな変化を好みます。「世界を変える」「社会課題を解決する」といった言葉は魅力的です。しかし現実には、社会を支えているのは無数の小さな行動です。誰かが椅子を譲る。誰かがゴミを拾う。誰かが話を聞く。誰かが「一緒にやりませんか」と声をかける。その積み重ねが、地域の空気を変え、人と人との距離を縮めていきます。

私は以前、「知り添う」という言葉に出会いました。ただ知識として知るのではなく、その人の背景や思いに少し寄り添いながら知ろうとする姿勢です。傍観者でいるとき、私たちは相手を「知らない誰か」として見ています。しかし「知り添う」姿勢を持つと、相手は「自分と同じように不安を抱え、迷いながら生きている人」に変わります。その瞬間、「誰かがやるだろう」という感覚は少しずつ薄れていきます。

駅での出来事からしばらくして、今はそういう事もないようですが、私は乱雑に並んでいる地下鉄の駅周辺の放置自転車群の近くで、白杖を持った方を見かけました。点字ブロックの上に自転車が置かれていたのです。それが見えていたので事情をお話して・・・と思いながら、、一瞬ためらいましたが、そのとき心に浮かんだのは「また誰かがやるだろう」ではなく、「もし自分が声をかけなかったら、この違和感をまた持ち帰るのだろう」という思いでした。私は近づき、「駅へ行かれるのなら、ご一緒しましょうか」と声をかけました。男性は少し驚いた顔をして、「ありがとうございます」と笑いました。

それだけのことです。世界が変わったわけではありません。けれど、私の中で何かが変わりました。傍観者の席から、ほんの少し立ち上がれた気がしたのです。

今の社会には、「大きな正しさ」を語る声があふれています。けれど本当に必要なのは、「小さな違和感」を見逃さない感性かもしれません。違和感は、心が「ここに何か大切なものがある」と知らせてくれるサインです。そのサインを無視し続けると、私たちは他人だけでなく、自分自身の感受性も失っていきます。

だから私は、「傍観者を卒業する」とは、英雄になることではないと思っています。それは、違和感に気づいたときに立ち止まり、「私にできることは何だろう」と問いかける習慣を持つことです。

大きな一歩でなくていいのです。
声をかける。話を聞く。関心を持つ。参加してみる。

その小さな行動が、誰かの孤独を少し軽くし、同時に自分自身を「生きている実感」へとつなげてくれます。

「誰かがやるだろう」という言葉の中には、安心があります。しかしその安心は、ときに社会の温度を下げてしまいます。一方で、「私にできること」を考えると、不安や勇気が必要になります。けれど、その一歩が増えるほど、社会には「見ている人」ではなく「関わる人」が増えていきます。

そして私は、子どもたちに残したい未来とは、完璧な社会ではなく、「誰かの小さな違和感に気づいたとき、そっと一歩を踏み出せる人が多い社会」なのだと思うのです。