― 一人でいるときに訪れる悲しみの正体 ―

人は一人でも、ふいに悲しくなります。
誰かに傷つけられたわけでもなく、明確な不幸が起きたわけでもない。それでも、胸の奥が静かに沈んでいく瞬間があります。

忙しさが途切れたとき。
夜、ふと立ち止まったとき。
周囲は平穏で、自分も「恵まれている」とわかっているのに、なぜか心が重くなる。

この「理由のはっきりしない悲しみ」は、決して特別なものではありません。むしろ、多くの人が経験している、ごく人間的な感情です。

では、人はなぜ、一人でいても悲しくなるのでしょうか。

私は二十歳ぐらいから約7年間一人住まいを経験し、時々こういう思いにふける自分を第三者的に見ていました。と言いますか、そこに持っていっていた、これが正しいのかもしれません。それから数十年、この「持っていく癖」は今もなお続いております。今回は原点でもある「悲しみ」を言葉で考えてみます。


悲しみは「不幸」から生まれるとは限らない

私たちはしばしば、悲しみには原因があるべきだと考えます。
失敗したから、失ったから、否定されたから悲しいのだ、と。

しかし実際には、明確な原因がない悲しみのほうが、むしろ厄介なんですね。
「理由がないのに悲しい自分」を、私たちはうまく説明できません。

※余談ですが、最近の医療は何でも病名を付けると認識しており、現実に数十年前には無かった病名が存在します。それも細分化されて。「何か、突然悲しくなるのです。理由はありません。でも、そうなってしまいます。」なんて、病院に駆け込むといったいどのように対応をしていただけるのでしょうかね。薬を処方されるのでしょうか?

さて、続きです、、ここで重要なのは、悲しみが必ずしも「出来事」から生まれるわけではない、という点です。
悲しみは、状態から生まれることがあります。

それは、「満たされていない」という感覚です。
何かが足りない。
何かが置き去りにされている。
しかし、それが何なのか、自分でもはっきりしない。

この曖昧さこそが、一人でいるときの悲しみの特徴と思うのです。


人は「意味」を必要とする存在である

人間は、出来事そのものよりも、「意味」によって心を動かされます。
同じ出来事でも、それにどんな意味を与えるかによって、感じ方は大きく変わります。

一人でいる時間が、「休息」や「自由」として意味づけられていれば、悲しみは生まれにくいでしょう。
しかしそれが、「取り残されている」「誰からも必要とされていない」という意味を帯びた瞬間、静かに悲しみが忍び寄ります。

重要なのは、現実がどうか、ではありません。
「自分は今、どんな位置にいる存在なのか」という認識です。

人は、誰かに見られていなくても、誰かと比べていなくても、自分自身に問い続けています。

――私は、ここにいていいのだろうか。
――この時間は、意味のあるものなのだろうか。

この問いに確信が持てなくなったとき、人は悲しくなります。腹立たしく思ったりもします。


一人の悲しみは「つながりの欠如」ではない

よく、一人での悲しみは「孤独」だと説明されます。
しかし、孤独=一人、とは限りません。

人は、誰かに囲まれていても悲しくなりますし、逆に、一人でいても満ち足りていると感じることもあります。

ここで問題なのは、人数ではありません。
つながりの有無でもありません。

本質は、「自分の内側とつながれているかどうか」です。

忙しさや役割に追われる中で、自分が何を感じているのか、何を望んでいるのかを置き去りにしていると、心は徐々に自分自身との接点を失っていきます。

一人になった瞬間、その空白が一気に浮かび上がる。
それが、「理由のわからない悲しみ」として感じられるのです。


悲しみは、感情の異常ではない

現代社会では、悲しみはしばしば「避けるべきもの」とされているようです。
前向きであること。
元気でいること。
ポジティブでいること。

それらが正しさとして共有されるほど、悲しみは「処理すべき不具合」のように扱われます。

しかし、悲しみは異常ではありません。
それは、心が正常に働いている証でもあります。

悲しみは、「このままではいけない」「何かがずれている」という、内側からのサインなんですね。

それを無理に消そうとすると、悲しみは形を変えて残ります。
無気力、苛立ち、虚しさ、不安――。

悲しみを感じる力は、感じ取る力そのものです。
それを失うことのほうが、実は危ういのです。


人はなぜ、それでも悲しむのか

人は、完全に満たされることはありません。
どれほど安定していても、どれほど理解されていても、心のどこかに「まだ足りない」という感覚を抱えています。

それは欠陥ではなく、人間の構造と思います。

人は未来を思い描き、過去を振り返り、「今」を相対化して生きています。

だからこそ、「今ここ」にいても、「ここではないどこか」を思ってしまう。

悲しみとは、人が時間を持つ存在であることの代償なのかもしれません。


悲しみとともに、生きるということ

人は、悲しまないように生きることはできません。
できるのは、悲しみを敵にしないことです。

一人で悲しくなったとき、「弱いからだ」「贅沢だからだ」と切り捨てる必要はありません。

その悲しみは、自分が意味を求めていること、自分の人生を投げやりにしていないことの証です。

悲しみは、人生の失敗ではありません。
それは、「感じながら生きている」という事実そのものです。

一人で悲しくなることがある。
それでも人は、生きていく。

その静かな現実を受け入れるところから、人はようやく、自分自身とつながり直すことができるのかもしれません。

1970年代に「時代の寵児」としてもてはやされ、テレビ嫌いとか、喧嘩早いとか、色々と問題も起こした歌手がいています。テレビを引退しますとか言いながら、ラジオDJで昔にすがってそれを「飯のネタ」にしていると、私は勝手に思っております。そんなお方ですが、実は大ファンでした。彼の曲はほぼ全曲知っていますが、、現在は完全なアンチになりました。大嫌いになってしまいました。理由は不明、、なんですね。でも、1曲だけ今でも「あの彼がこんな詩をよく書いたな~」と思う曲がありまして、この曲だけ好きです。「どうして こんなに 悲しいんだろう」詩を書きます。本日の投稿と関連しているような、していないような、、。

悲しいだろう みんな同じさ
同じ夜を むかえてる
風の中を 一人歩けば
枯葉が肩で ささやくョ

どうしてだろう このむなしさは
誰かに逢えば しずまるかい
こうして空を 見あげていると
生きてることさえ むなしいョ

これが自由というものかしら
自由になると寂しいのかい
やっと一人になれたからって
なみだが出たんじゃこまるのさ
やっぱり僕は人にもまれて
みんなの中で生きるのさ

ひとのこころは暖かいのさ
あしたはもう一度ふれたいな
ひとりごとです気にとめないで
ときにはこんなに思うけど
あしたになるといつものように
こころをとざしている僕サ

以上。