― コミュニケーション/話さない選択の価値を考える ―


はじめに

「なぜ何も言わないのですか?」
「黙るということは、伝える努力を放棄しているのではありませんか?」

私たちは日常の中で、こうした言葉を無意識に使っています。
話すこと、言葉にすること、即座に反応すること。
それらが“良いコミュニケーション”の条件であるかのように。

しかし本当にそうでしょうか。
沈黙、間、距離を取ること、時には「逃げる」ことは、コミュニケーションの失敗なのでしょうか。

時々そのような事を考えておりますが、「話さない選択」に光を当てながら、現代社会、とりわけ日本社会におけるコミュニケーション観を考えてみます。


1 「話す=正しい」という思い込み

多くの場面で、私たちは次のような前提を共有しています。

  • 話さない人は、消極的である
  • 沈黙は、気まずさのサインである
  • 逃げるのは、弱さや無責任の表れである

これらは本当に事実でしょうか。

実際には、「話せない」「話さない」背景は人それぞれ異なります。
にもかかわらず、話す能力だけが評価基準になる社会では、沈黙はすぐに「欠如」や「問題」として扱われてしまいます。


2 沈黙は「空白」ではなく「情報」である

沈黙とは、何も起きていない状態ではありません。
そこには、次のような意味が含まれていることがあります。

  • 考えている
  • 整理している
  • 受け止めきれず、処理中である
  • 今は言葉にする段階ではない

つまり沈黙とは、内側で起きているプロセスの表れです。

音楽において「間」があるからこそ、旋律が生きるように、会話においても沈黙は、意味を深める役割を果たします。


3 APD・感覚過敏・内向性の人たちの現実

APD(聴覚情報処理障害)のある人は、「聞こえているのに、理解が追いつかない」という状況に置かれます。

その結果、

  • すぐに返事ができない
  • 話についていけない
  • 沈黙せざるを得ない

という状態が生まれます。

また、感覚過敏のある人にとっては、会話の場そのものが過剰な刺激になることもあります。

内向性の人は、「話しながら考える」のではなく「考えてから話す」タイプが多いと言われています。

これらの人々にとって沈黙は、怠慢ではなく、自己調整の手段なのです。


4 「逃げる」は本当に悪いことか

「逃げる」という言葉には、否定的な響きがあります。
しかし、すべての場に居続けることが正解でしょうか。

  • 心身が限界に近づいている
  • 理解されない状況が続いている
  • 自己否定が積み重なっている

こうした場面で距離を取ることは、自己防衛であり、回復のための選択です。

逃げることは、関係を壊す行為ではなく、自分を守り、再びつながるための準備である場合もあります。


5 日本社会の「空気を読む」文化の功罪

日本社会では、「空気を読む」ことが重視されます。

この文化には、

  • 言葉にしなくても察する
  • 摩擦を避ける
  • 調和を保つ

という良さがあります。

一方で、

  • 話さない理由を説明しないと責められる
  • 沈黙が「ノリが悪い」「協調性がない」と解釈される
  • 逃げる選択肢が認められにくい

といった弊害も生みます。空気を読む文化が強すぎると、沈黙する人ほど、傷つきやすくなるのです。


6 コミュニケーションとは「言葉の量」ではない

良いコミュニケーションとは、
たくさん話すことではありません。

  • 話さない選択を尊重できる
  • 間を待てる
  • 逃げる人を責めない

こうした姿勢こそが、
人と人との関係を長く、健やかに保ちます。

「今は話せません」
「少し距離を置きたいです」

これらが自然に言える社会は、実はとても成熟した社会です。


おわりに|沈黙を失敗にしないために

沈黙、間、逃げる。
それらはコミュニケーションの敗北ではありません。

むしろ、

  • 自分を守る
  • 相手を尊重する
  • 関係を壊さない

ための、もう一つのコミュニケーションです。

話さない選択を許せる社会は、話すことが苦手な人だけでなく、すべての人にとって生きやすい社会になります。

沈黙の中にある声に、私たちはもっと耳を澄ませてもよいのではないでしょうか。