
― 立場・権力・役割差がある中での付き合い方 ―
社会の基本を形成する「人と人との付き合い」について先日から考えております。
「人と人は対等であるべきだ」
この言葉に、私たちはほとんど反射的にうなずきます。対等であることは、民主的で、理想的で、誰も傷つけないように思えるからです。
しかし、現実の人間関係に目を向けると、どうでしょうか。
医師と患者、支援する人とされる人、親と子、上司と部下、専門家と素人。そこには必ずと言っていいほど、立場・権限・役割・知識量の差が存在します。
それでも私たちは、「フラットに話しましょう」「上下関係を持ち込まないようにしましょう」と言い続けます。
果たしてそれは、本当に人を楽にしているのでしょうか。

「対等であろう」とする違和感
医療現場でよく聞かれる言葉に、「患者さんと対等な立場で向き合う」という表現があります。理念としては美しく、誠実さも感じられます。しかし、患者側からすると、そこに微妙な違和感を覚えることも少なくありません。
なぜなら、患者は「病気という弱さ」を抱え、医師は「知識と判断権」を持っているからです。この差は、善意や心がけで消えるものではありません。
それにもかかわらず、「対等ですから何でも聞いてください」「一緒に考えましょう」と言われると、患者は戸惑います。
――本当は先生のほうが分かっているのではないか。
――判断を委ねられているようで、少し怖い。
そんな感情が生まれることもあるのです。
これは、対等であろうとする姿勢そのものが、時に責任の押し付けや不安の増幅につながる例だと言えるでしょう。

フラットさが「暴力」になるとき
「立場を持ち込まない」「権力を使わない」「上下関係を意識しない」。
これらは一見、相手を尊重しているように見えます。しかし、状況によっては、これが“見えない暴力”になることがあります。
例えば、支援する側とされる側の関係です。
支援する人が「私たちは対等ですから」と言った瞬間、支援される人は「助けてもらっている自分の立場」を否定されたように感じることがあります。
本当は、助けを必要としている状態なのに、それをなかったことにされてしまう。
弱さを抱えている現実を、言葉の上で消されてしまう。
これは、非常に孤独な体験です。
同様のことは、親子関係や職場でも起こります。
親が「あなたの意見を尊重している」と言いながら、最終決定は親が行う。
上司が「フラットに話そう」と言いながら、評価権は上司が握っている。
こうした場面で、「対等」という言葉は、現実とのズレを覆い隠すための装飾になってしまうことがあります。

対等さとは「同じ」であることなのか
ここで立ち止まって考えたいのは、「対等」とは何を指しているのか、という点です。
私たちは無意識のうちに、対等=同じ、というイメージを持ってはいないでしょうか。
同じ意見を持つこと。
同じ責任を負うこと。
同じ判断力を持つこと。
しかし、人はそもそも同じではありません。年齢も、経験も、知識も、身体の状態も、社会的立場も異なります。それらを無理に「同じ」にしようとすること自体が、どこか不自然なのです。
むしろ重要なのは、違いがあることを前提に、どう扱われているかではないでしょうか。

対等さの本質は「尊重」にある
対等さとは、「条件をそろえること」ではなく、「扱い方の質」にあると考えられます。
つまり、同じであることではなく、尊重されていると感じられることです。
尊重とは何でしょうか。
それは、相手の置かれている状況を理解しようとする姿勢であり、選択の自由を奪わない態度であり、意見や感情を軽んじないことです。
医師と患者であれば、知識や判断の差があることを隠さず、その上で「分かりやすく説明されている」「不安を置き去りにされていない」と感じられるかどうか。
親と子であれば、最終責任は親にあっても、「気持ちをちゃんと聴いてもらえた」と子どもが感じられるかどうか。
上司と部下であれば、立場の差があっても、「人格として扱われている」と実感できるかどうか。
そこにこそ、実感としての対等さが生まれます。

「非対称性」を認める勇気
成熟したコミュニケーションに必要なのは、対等であると“装う”ことではなく、非対称な関係を正直に認める勇気なのかもしれません。
「私は専門家で、あなたはそうではない」
「私は決定権を持っている」
「今はあなたが助けを必要としている」
こうした事実を隠さず、その上で相手を軽んじない。
この姿勢は、決して上から目線とは違います。むしろ、相手に対して誠実であると言えるでしょう。
対等であることを強調するよりも、「私はあなたより強い立場にいるかもしれない。そのことを自覚した上で、あなたを尊重したい」と伝えるほうが、よほど信頼関係は築きやすいのです。

本当に問うべき核心
冒頭で掲げた問いに、改めて戻りますね。
対等さとは、“同じ”であることなのか。
それとも、“尊重”されていることなのか。
現実の人間関係を見渡すと、答えは後者に近いように思えます。
同じでなくてもいい。立場が違ってもいい。
ただ、その違いが、相手を黙らせたり、追い込んだり、孤立させたりする方向に使われないこと。
それこそが、私たちが目指すべき「対等さ」の正体ではないでしょうか。

おわりに
「フラットでいよう」「対等でいよう」という言葉は、時に便利で、耳ざわりの良い言葉です。しかし、その言葉が誰のために使われているのか、一度立ち止まって考える必要があります。
本当に相手のためになっているのか。
それとも、自分が加害者にならないための免罪符になっていないか。
対等な関係は、理想として掲げるものではなく、日々の関わりの中で“感じ取られるもの”です。
違いを消すことではなく、違いを抱えたまま、相手を人として扱い続けること。
その積み重ねの先にこそ、言葉に頼らない、本当の意味での「対等さ」が立ち現れてくるのだと思います。
