~宗教と欲望のあいだで~

私たちは、歴史を振り返るとき、必ずといっていいほど宗教という存在に出会います。世界各地の文明を見ても、時代が異なっても、宗教は常に人々の暮らしのそばにありました。祈りの対象であり、文化の基盤であり、ときには争いの火種にもなってきました。宗教という存在は、人類の歴史に深く根づきすぎていて、あまりにも大きなテーマゆえに、語るとき少し身構えてしまうことがあります。しかし今回は、あくまで個人的な視点として、「人はなぜ宗教を必要とし、ときにそれを理由に争いに向かってしまうのか」という問いを、少し柔らかい感触で考えてみたいと思います。

まず、宗教が果たしてきた大きな役割として、「世界を理解するための物語」を提供してきた、という点が挙げられます。人間は、理由のわからない出来事や、理解の及ばない自然災害、病気、死といった現象に対して、不安を抱えながら生きることになります。宗教は、こうした「不安」を和らげ、世界をどう受け止めればいいのかのヒントを与える存在でもありました。見えないものに意味を与え、心の拠りどころを作る。これは古代から現代に至るまで変わらない、宗教の重要な働きだと思います。

しかし歴史のもう一つの側面として、宗教はしばしば争いの理由としても語られてきました。「神の名のもとに」という言葉は、非常に強力です。こうした言葉が、一個人の行為に正当性を与え、集団の行動を後押しすることも確かにありました。では、人はなぜ宗教を理由に残虐な行為ができてしまうのでしょうか。極端な行動に踏み出すその背景には、宗教そのものというよりは、人間が本来持っている「欲望」や「恐れ」が大きく関係しているように思います。

例えば領土を広げたい、人々を支配したい、富を得たい、影響力を高めたい――こういった欲望は、宗教が生まれる以前から人間が持っていた本能的なものです。それに加えて、外敵への恐怖や、共同体の存続に対する不安なども、人を攻撃的にさせることがあります。こうした「欲」や「恐れ」という根本的な衝動に対して、宗教は“理由を与える役割”を担うことがあるのです。

つまり、欲望が先にあり、宗教がその理由づけとして使われる場合がある――これは歴史を読む人たちの間でもよく語られる視点です。宗教そのものが暴力を生むというよりは、暴力を正当化するための“物語”として宗教が利用されてしまう。これは非常に人間らしい、ある意味で弱さの一つとも言えるかもしれません。

とはいえ、宗教すべてを「争いの道具」と捉えるのは大きな誤解になります。宗教はもともと、心を癒し、共同体をまとめ、人々の生活にルールや倫理を提供する役割も持っていました。例えば、助け合いや思いやり、慈悲といった価値観を宗教から学んだ人も多いでしょう。それこそ、宗教が人類史のなかで果たしてきた「光」の側面です。宗教は本来、争いを生むのではなく、人がよりよく生きるための土台であり、心を整えるための仕組みでもありました。

ではなぜ、宗教は「癒しの装置」であると同時に、「争いの理由」にもなり得るのでしょうか。その答えは、人間が持つ“物語を必要とする性質”にあるように思います。人は、ただ事実だけで生きていくことができません。自分がどこから来て、なぜ生きて、どこへ向かうのか。それを理解するための物語が必要です。そしてその物語は、ときに優しさを育み、ときに攻撃性を正当化する力を持つことがあります。宗教は、非常に強力な“物語”なのです。

さらに現代において興味深いのは、宗教が弱まりつつあるように見える社会でも、別の「物語」が宗教の役割を担い始めているという点です。国家、イデオロギー、経済成長、科学への信仰、SNSでの正義感……こうしたものが、宗教的な「絶対性」「正しさ」「仲間意識」「敵の設定」といった特徴を持つことがあります。宗教を超えても、人はやはり強い物語を必要とし、その物語は時に対立を生むのです。

結局のところ、人間が争いを生むとき、そこには必ず“合理化”が必要になります。「これは正しいことだ」「やらなければならない」「相手が間違っている」――そう思えなければ、大きな暴力には踏み切れません。その“正しさの物語”として宗教が使われてきた歴史があるというだけで、宗教が悪いわけではないという視点は忘れてはいけないと思います。

むしろ問題は、人間の中にある「欲」と「恐れ」をどう扱うか、そしてそれを理由づけるための“物語”をどう選ぶか、という点にあるのではないでしょうか。宗教が与えてきた「寄りかかれる物語」は、人の心を支えるためのものであってほしい。誰かを傷つけるための旗印になってしまうとき、そこにあるのは宗教ではなく、人間が持つもうひとつの側面――欲望や恐怖が影響しているのだと思います。

歴史、特に近現代史を振り返りながら思うのは、人は物語を必要とする生き物であるということ、そして物語は使い方によって人生を温かくも冷たくもするということです。宗教という大きなテーマを見つめるとき、そこには人間そのものが映し出されているように感じます。人の弱さも強さも、希望も争いも、すべてがこの大きな物語の中に詰まっています。

宗教が持つ光と影、その両方を理解することは、人間という存在を理解することにもつながる気がします。そして、私たちはどんな物語を選び、どんな理由で生きていくのか――その選択こそが、これからの世界を形づくっていくのではないでしょうか。