
―― APDと医療コミュニケーションに見る「期待」と「ズレ」――
先日も強く感じたことがあったので、再度になりますが書かせていただきます。
「きちんと説明したはずなのに、伝わっていない」
「何度も聞いたのに、理解してもらえていない」
医療現場に限らず、私たちは日常的にこうしたすれ違いを経験しています。多くの場合、その原因は「説明不足」や「聞く姿勢の問題」と片づけられがちです。しかし、もう一段深く掘り下げると、そこにはもっと根本的な構造があります。それが、「分かり合えるはずだ」という無意識の前提と、そこから生じる期待のズレです。
聴覚情報処理障害(APD)の視点を交えながら、医療コミュニケーションに潜むこの問題を考えてみたいと思います。

「分かり合える前提」が生む落とし穴
私たちは、会話が成立しているとき、相手と「同じものを理解している」と自然に思い込みます。特に医療の場では、
・医師は専門的に説明した
・患者はうなずき、返事をした
この二つがそろうことで、「理解は完了した」という前提が成立します。
しかし、この前提こそが、実は最も危ういものです。
人は本質的に、同じ言葉を聞いても、同じ意味として受け取っていません。知識、経験、不安の度合い、置かれている立場によって、言葉は全く違う形で解釈されます。それでも私たちは、「普通は分かるはず」「説明したのだから伝わっているはず」と、無意識に期待してしまうのです。
加えて、マスク着用時においての伝わる音量(声量)の低下を加味していないという、初歩的な気遣いの欠落があります。
ある企業の研究結果では、人間の日常的な会話は250Hz~4,000Hzの周波数帯にあります。マスクをするとマスクは吸音材として働き、音声を吸収してしまうのです。市販のマスクをつけている場合、2,000Hz~7,000Hzの間の高めの音が減衰してしまい、声のバランスが変わることが分かりました。それで「マスク越しの声がこもって聞こえる」のです。
この結果を踏まえた上で、説明は行われれなければなりませんが、意識されている人はいてるのか?と、疑うレベルではないでしょうか。

APDが可視化する「聞こえているのに分からない」現実
APD(聴覚情報処理障害)のある人は、「音」は聞こえていても、その情報を脳内で正確に処理することが難しい特性を持っています。
周囲から見ると、
・返事をしている
・会話の場にいる
・聞き返していない
このような外形的な情報だけが見えるため、「理解している前提」で話が進んでしまいます。
しかし実際には、
・話の要点がつかめない
・専門用語が連続すると意味が抜け落ちる
・緊張や不安で処理能力が著しく低下する
といった状態が起きています。APDの人にとって医療機関は、静かな環境とは程遠く、情報過多で、時間制限があり、心理的負荷も高い場所です。つまり、「最も分かり合えなさが生じやすい環境」なのです。

医療コミュニケーションにおける「期待のズレ」
医療現場では、医師と患者の間に、構造的な非対称性があります。
医師は「説明する側」、患者は「理解する側」と位置づけられます。
ここで生じやすいのが、次のようなズレです。
- 医師の期待
「これだけ説明したのだから、理解しているはず」 - 患者の現実
「よく分からないが、聞き返す余裕がない」
患者側は、「分からない」と言うことで、
・迷惑をかけるのではないか
・自分の理解力が低いと思われるのではないか
という不安を抱えがちです。特にAPDの人は、過去に「ちゃんと聞いていない」「集中していない」と誤解されてきた経験を持つことが少なくありません。
こうして、理解していないことを表明できないまま、診察は終わります。

「分かり合えない前提」に立つということ
では、どうすればよいのでしょうか。
答えは意外とシンプルです。
「分かり合えない前提に立つ」ことです。
これは、諦めや冷たさではありません。むしろ逆で、相手を尊重する姿勢です。
「人は簡単には分かり合えない」
「言葉は常にズレる」
この前提に立つことで、初めて確認や補足が自然な行為になります。
例えば医療の場であれば、
・「私の説明、分かりにくかったところはありませんか」
・「一度、ご自身の言葉で理解を聞かせてもらってもいいですか」
・「あとで見返せる資料をお渡ししますね」
これらは、能力を疑う行為ではなく、「ズレは起きるもの」という認識から生まれる配慮です。

APDが私たちに教えてくれること
APDは決して特殊な問題ではありません。
疲れているとき、緊張しているとき、不安が強いとき、誰もが「聞こえているのに理解できない」状態になります。
つまり、APDの困難さは、人間のコミュニケーションの本質的な弱さを、分かりやすく示しているのです。
「分かり合えない前提」に立つことは、APDの人だけのためではありません。高齢者、外国人、初めて病気を告げられた人、精神的に余裕のない人――すべての人にとって有効な姿勢です。

正しさよりも、確認を
医療者は正しい情報を伝えようと努力します。しかし、正しさと伝わることは別物です。
コミュニケーションにおいて重要なのは、「正しく話したか」ではなく、「どこまで共有できたか」です。
分かり合えない前提に立つことで、
・期待が下がり
・確認が増え
・沈黙や聞き返しが許され
結果として、信頼が生まれます。

ズレを恐れない関係へ
人と人との間にズレがあるのは、欠陥ではありません。それは前提です。
APDの存在は、その事実を私たちに突きつけています。
「分かり合えないかもしれない」そう思った瞬間から、対話は始まります。
医療コミュニケーションが目指すべきなのは、完全な理解ではなく、ズレを修正し続ける関係性なのではないでしょうか。
