― ケアと教育がつくる存在の意味ー様々な「生きがい」の気づき

これまで、私の周囲の人達とお話をしてきた中で「これは書いておきたい」と思う事を書きます。あくまでも独り言でありまして、所謂、知識人たちが書いているコラムではなく、これまでも何度も前置きをしていますが、私の経験に基づいていますので「それは違うやろ!」何て事を言わずに、読んで頂ければ嬉しいです。では・・・

医療や福祉、教育の現場では、日々たくさんの「出会い」と「別れ」があります。
 治療を終えて退院する患者さん、人生の最期を迎える方、卒業して社会に旅立つ生徒たち。
 その一人ひとりとの関わりの中で、私たちは気づかぬうちに、自分の中に誰かを宿し、また誰かの中に自分を残しています。

 それは、記録にも統計にも残らない小さな出来事の積み重ねです。
 けれども、その積み重ねこそが、人の生を支え、社会をやさしく形づくっているのだと思います。

■ 「支える」とは、「生きる」を分かち合うこと

 病や障がいを抱える人にとって、医療者や支援者の存在は単なる「専門職」ではありません。
 不安や痛みの中で、そっと声をかけてくれる人。
 話を聴き、そばにいてくれる人。
 その温度のある関わりが、どれほど心を支えるか――現場にいる方ほど、実感されていることでしょう。

 患者さんが「先生の言葉を思い出して、頑張ろうと思えました」と語るとき、そこにはまさに「誰かの中に、自分が生きている」瞬間があります。
 その一言に、医療者としての苦労がすべて報われると語る方も少なくありません。

 支援の仕事は、しばしば報われない努力の連続です。
 しかし、その努力は、確かに“誰かの心の中”に残っています。
 そしてその記憶が、いつか別の誰かを支える力になる。
 それが、人が人を支えるということの連鎖なのだと思います。


■ 教育の現場に見る「生きた記憶」

 教育の現場にも、同じような構造があります。
 教室を去った後、何年も経ってから「先生に言われた言葉が今でも心に残っている」と卒業生が語ることがあります。
 教師にとって、それは何よりの報酬です。

 教育とは、知識を教えることではなく、「人の中に生きる言葉を残すこと」なのかもしれません。
 学びとは、頭ではなく心に刻まれるもの。
 そして、心に刻まれたものは、長い時間をかけて他者へと受け継がれていくのです。

 今は亡き私の弟、元小学校教師は生前こういうことを語っていました。
 「毎年、教え子たちは巣立っていく。でも、子どもたちの中に少しでも“先生の言葉”が残っていれば、それで十分と思う。きっとその子が誰かを励ますとき、私はその子の中で生きているのだと思うから、そういう想いがなければやってられない」と。

 この言葉には、教育の本質が凝縮されています。
 人を育てるとは、自分を相手の中に“生かす”こと。
 そしてその相手がまた誰かを育てるとき、自分の思いが“生き続ける”のです。


■ 「誰かの中に生きる」ことの静かな証明

 医療や福祉、教育の現場では、別れの場面が避けられません。
 命の終わりを見届けることもあれば、長く関わった利用者が施設を離れていくこともある。
 そのたびに、「自分はこの人に何を残せただろう」と、胸の奥で問いが湧き上がると聞きました。

 けれども、答えはすぐには見えませんし、人の心に残るものは、形ではなく“時間の中で育つ記憶”だからです。

 親しい看護師から聞きました。
 「最期のとき、患者さんが私の手を握って“ありがとう”と言ってくださった。その言葉が忘れられません。あの方の中に私がいたのか、それとも、いま私の中にあの方が生きているのか――どちらも正しい気がします」

 ケアの現場では、“誰かの中に生きる”という感覚が、日常の延長線上にありますよね。
 それは、特別なドラマではなく、静かな日々の積み重ねの中で生まれるもの。
 その静けさこそが、関係の深さを物語っているように思います。


■ 「つながり」が専門性を超える瞬間

 医療・福祉・教育の世界では、専門知識や技術が欠かせません。
 けれども、どれほど知識があっても、人とのつながりを失えば、その力は半減します。
 なぜなら、相手が「自分はこの人に大切にされている」と感じてはじめて、心が動くからです。

 つまり、支援や教育の本質は“つながり”の中にあります。
 それは依存でも支配でもなく、「あなたを通して自分を見つめる」関係です。

 ある福祉施設の職員が、退所する利用者にこう言われたそうです。
 「あなたがいたから、自分を嫌いにならずに済みました」
 その一言で、何年もの苦労が報われたと語っていました。

 それはまさに、“誰かの中に自分が生きた”証です。
 そして、その利用者が次に誰かと出会うとき、今度はその“優しさ”を誰かに手渡していくでしょう。
 支援とは、こうして人から人へと伝わっていく「心のリレー」と思うのです。


■ 子どもたちが教えてくれる「存在の継承」

 教育の現場では、子どもたちがしばしば大人に「生きる力」を教えてくれます。
 病気を抱えながらも笑顔を絶やさない子、困難の中でも友達を思いやる子。
 そうした姿を見るたびに、教師や医療スタッフは「人は誰かのために生きるときに強くなれる」と気づくでしょう。

 つまり、子どもたちの中にも、私たちは生かされているのです。
 「教える者」と「教えられる者」の境界は、実はとても曖昧で、常に入れ替わっています。
 子どもに励まされ、患者に救われ、利用者に学ばされる――。
 それが、この分野で働く人たちが持つ“人間理解の深さ”の源かもしれません。

 親と子の関係も同様で、私も子供が3人いておりますが、今思うと様々なシーンでその事は経験しましたし、今も継続していると思います。

教えられるもの そう考えると、「誰かの中に自分が生きる」というのは、支援者が一方的に与えるという構図ではなく、相互に生き合う関係のことなのです。


■ 「記憶に残る」ということの意味

 福祉施設で長年働く職員の方に、印象的な話を聞いたことがあります。
 ある高齢者が、認知症の進行によって人の名前を思い出せなくなっていたのに、最後までその職員の名前だけは呼び続けていたそうです。

 「どうしてだろう」と不思議に思っていた職員は、ふと気づいたと言います。
 「私がその方に何かをしたというよりも、その方が私を“見つけてくれた”んです。あの方が私の存在を覚えていてくれたことで、私のほうが生かされていました」

 “記憶に残る”ということは、片方向の現象ではありません。
 誰かの中に生きるとき、同時にその誰かも自分の中で生きている。
 その重なり合いこそ、人間関係の奇跡ではないでしょうか。


■ 終わりに ― 「生きる」は、響き合うこと

 医療・福祉・教育の現場に身を置く人たちは、日々の忙しさの中で、自分が「何を残せているのか」と迷うことがあるかもしれません。
 しかし、目に見える成果だけが“支援の証”ではありません。

 ふとした優しい声かけ、まなざし、寄り添う沈黙。
 それらが、相手の心に残り、やがてその人の生き方を変えていくことがあります。
 その変化は数年後、あるいは十数年後にようやく形になることもあります。

 けれども、それでいいのだと思います。
 人が誰かの中で生きるとは、そうした静かな時間の中でゆっくりと熟成していくものだからです。

 私たちは、つながりの中で生まれ、支えられ、そして誰かの中に生き続けていきます。
 だからこそ、今日あなたが向き合うその一瞬のまなざしに、心を込めたい。
 その瞬間が、きっと誰かの未来のどこかで、やさしい光となって灯るはずです。

 「誰かの中に、自分が生きる」
 それは、医療・福祉・教育という“人と向き合う仕事”に携わるすべての人が、日々の中で確かに紡いでいる、最も人間的な奇跡なのです。
 私はそう思います。