
― 運命と偶然のはざまで
人生を振り返ってみると、「あのとき、あの場所にいなければ」という出来事がいくつも浮かびます。たまたま立ち寄った店、たまたま声をかけられた縁、たまたま選んだ道。その「たまたま」が、のちに人生を大きく動かすきっかけになることがあります。私自身にも、まるで出来すぎた物語のような“偶然”がいくつもあります。そのたびに「これが本当に偶然なのか?」と考え込むのです。
たとえば、四十五年前のことです。私は学生時代にアルバイトをしていました。お店には、年上の女性が何人かいて、その中の一人はいつも明るく世話好きで、私たち若いアルバイトをよく気にかけてくれる“おばちゃん”でした。その方は昼の部が終わると、「これから夜の部のアルバイトに行きますねん」と言って、割烹料理屋さんに向かっていました。当時の私は、彼女のそんな日常会話を深く気に留めることもなく、ただ「大変やなぁ」と思って聞き流していました。

ところが四十年ほど前、私の妻(当時はまだ結婚前ですが)の祖父の葬儀の席で、思いがけずその“おばちゃん”と再会したのです。驚いたことに、その夜に彼女が働いていた割烹料理屋さんというのが、まさに妻の実家の向かいにあるお店で、しかもそのお店は彼女の妹さんが営んでいたというのです。つまり、私は独身時代に、その後の妻の家の向かいで毎日のように働いていた彼女と話をしていたわけです。妻とはまだ出会っていない時期です。けれど、見えない糸のような何かが、すでに私の生活と妻の世界を結び始めていたのかもしれません。
そんな話を人にすると、「そんな偶然ある?」と笑われることが多いのですが、私の人生では、このような“偶然にしては出来すぎた出来事”が何度も起きてきました。あまりに不思議で、「これは偶然なのか、それとも運命なのか」と、つい哲学的に考えてしまいます。

■ 偶然とは何か、運命とは何か
「偶然」とは、意図せずに起こる出来事のことを指します。つまり、人の意思ではどうにもならない出来事です。一方、「運命」は、あらかじめ決められている流れのように語られることが多い概念です。偶然は“無秩序”のように見えて、運命は“秩序”の象徴のように語られる。けれど実際の人生では、この二つの境界はあいまいです。
なぜなら、偶然の出会いがのちに意味を持った瞬間、私たちはそれを“運命的”と感じるからです。つまり、偶然が運命に変わるのは「後からの気づき」によるものだと言えるでしょう。
調べますと、心理学者のユングという人は、この現象を「シンクロニシティ(共時性)」と呼びました。彼によると、因果関係では説明できない出来事の一致が、内面的な意味のつながりによって起きることがあるというのです。
たとえば、ある人のことを思い出していたら、その人から突然連絡が来た。あるテーマについて考えていたら、翌日その話題がニュースで取り上げられた。こうした出来事に“意味”を感じるとき、私たちはそこに偶然以上の何かを見いだします。
つまり、シンクロニシティとは「偶然のようでいて、必然のように感じる現象」なのです。

■ 「たまたま」の裏にある見えない糸
人は皆、無数の“たまたま”の中で生きています。
電車に乗り遅れたことも、道を間違えたことも、たまたま誰かに声をかけられたことも、すべて偶然のようでいて、長い時間を経て何かの意味を持つことがあります。
思えば、人生とはこの“たまたま”の連続で成り立っているのかもしれません。私たちは何かを計画し、努力し、選択して生きているように感じていますが、実際には、偶然の出会いや出来事に大きく左右されているのです。
しかし、その偶然をどう受け取るかによって、人生の味わいはまるで違ってきます。
偶然を「ただの運」として片付ける人もいれば、「きっと意味がある」と受け止める人もいます。どちらが正しいというわけではありません。けれど、“たまたま”を大切にする人ほど、人とのつながりや人生の面白さに敏感であるように思います。
偶然を偶然のままにせず、心の中で「これはもしかして」と感じる。その感受性こそが、人生を豊かにする力なのかもしれません。

■ 「出来すぎた偶然」は人を謙虚にする
私がこれまでに経験した数々の「出来すぎた偶然」を思い出すとき、いつも胸の奥に湧き上がるのは“感謝”です。
なぜあの時あの場所にいたのか。なぜその人と出会えたのか。理由を探しても、理屈では説明できません。けれど確かなのは、「自分一人の力ではどうにもならないものが人生にはある」という実感です。
そうした偶然は、ときに人を謙虚にします。
人は成功したとき、自分の努力を誇りたくなるものですが、その裏には「たまたま出会った誰か」「たまたま巡り会えた機会」が必ずあるのです。
偶然の連鎖がなければ、今の自分は存在しない。そう考えると、他人への感謝や、過去への敬意が自然に芽生えてきます。
“たまたま”とは、人生が私たちにくれる小さな奇跡の証なのかもしれません。

■ 偶然は、出会いを通して「意味」に変わる
人との出会いというものは、まさに偶然と必然の境界にあります。
出会うはずのなかった人と出会い、そこから長い関係が生まれる。あるいは、一度の出会いがその後の人生を変えてしまう。そんな経験をした人は少なくないでしょう。
その出会いが、最初は「たまたま」でも、時間を経て意味を帯びてくる。そこに人間関係の神秘があります。
私が妻と出会った背景にも、まさにその“神秘”がありました。
何年も前にすでに間接的につながっていたという事実を知ったとき、「ああ、こうなることが最初から決まっていたのかもしれない」と感じました。もちろん、理屈では説明できません。でも、その偶然を「運命の一部」として受け入れることで、人生がより深く、豊かに感じられるのです。

■ 「たまたま」を信じるという生き方
世の中には、「すべての出会いには意味がある」と信じる人もいれば、「偶然に意味を求めるのはナンセンスだ」と笑う人もいます。
けれど私は、どちらの考えも否定しません。むしろ、“たまたま”をどう捉えるかは、その人の人生観の鏡だと思うのです。
偶然を“ただの偶然”として片付けるよりも、「何かの導きかもしれない」と受け止めるほうが、人は優しくなれます。
それは信仰というより、感受性の問題です。偶然に意味を感じる心の余白が、人とのつながりや、世界への信頼を育てていくのです。
そして思うのです。
“たまたま”という言葉の中には、実は人間の謙虚さや驚き、そして希望が詰まっているのではないかと。
偶然が重なって、今ここにいる。その奇跡を忘れずに生きていけたら、人生はどんな瞬間も少しだけあたたかく感じられるのかもしれません。

■ 結びにかえて
「たまたま」という出来事は、日常の中では気にも留めない小さなことかもしれません。けれど、時間が経って振り返ると、それが人生の大きな分岐点だったと気づくことがあります。
その瞬間、私たちは偶然を超えて、“生かされている”ことの意味に触れるのです。

人は、出会うべき人に、出会うべき時に、出会うのだと思います。
それを「たまたま」と呼ぶのか「運命」と呼ぶのかは、きっとどちらでもいいのでしょう。
大切なのは、その偶然を丁寧に受け取る心です。
そうして生きていくうちに、きっとまた新しい“たまたま”が、人生の扉をそっと開けてくれるのです。