― 恩送り(pay it forward)の考え方を現代社会でどう広げられるか ―

人は誰しも、生きていく中で多かれ少なかれ他者からの助けや優しさを受けながら歩んでいます。親や家族からの無償の愛情、友人からの支え、職場での思いやり、見知らぬ人のちょっとした親切。それらは一度きりの出来事のように見えて、心の中に長く残り、その後の生き方や人との関わり方に影響を与え続けます。
 こうした恩を「返す」ことは、人間関係を円滑にし、互いの信頼を深める大切な行為です。しかし一方で、受けた恩を必ずしもその相手に直接返すのではなく、別の誰かに渡していくという考え方もあります。それが「恩送り(pay it forward)」と言われています。

恩送りという発想の魅力

 恩送りの考え方は、古くから世界各地に存在してきました。日本でも「情けは人のためならず」という言葉に通じる考えがあり、これは「人に情けをかけることは、めぐりめぐって自分に返ってくる」という意味に解釈されます。つまり、善意は直線的に返すだけでなく、社会の中を巡っていくものだと理解されてきたのです。

 恩送りには二つの魅力があります。
 一つ目は、善意を「循環」させる点です。受けた人がその恩を誰か別の人に渡すことで、社会全体に温かい流れが広がっていきます。例えば、電車で席を譲ってもらった人が、その日の帰り道で道に迷っている観光客を助ける、といった具合に、善意は個人と個人を超えて社会全体に波及していきます。
 二つ目は、恩を「義務感」ではなく「自由な贈り物」として扱える点です。直接返すことを前提にすると、どうしても「借りを返さなければ」という圧力や負担が生じがちです。しかし「次の誰かへ渡せばいい」という発想に立つと、恩は重荷ではなく、自由で創造的な行為になります。その結果、人はより自然体で親切を実践できるようになるのです。

恩送りが現代社会に必要な理由

 現代社会は、効率と成果を重視する傾向が強まり、個人同士のつながりが希薄になりつつあります。都市化やデジタル化によって、人との接点は増えたはずなのに、深いつながりを実感できない人は少なくありません。その中で、人と人の間に「小さな温かさ」をつなぐ恩送りの考え方は、失われがちな人間味を取り戻す鍵になり得ます。

 また、経済的格差や社会的な分断が広がる時代において、恩送りは「持てる人が持たざる人へ」という一方通行の施しとは異なります。受けた人がまた別の誰かへ渡していくことで、上下関係ではなく水平的なつながりが生まれます。ここに、恩送りが現代に適した考え方である理由があるのです。

具体的な実践の形

 では、恩送りを日常生活の中でどのように実践できるでしょうか。いくつかの事例を挙げてみます。

  1. 日常の親切を渡していく
     誰かに助けてもらったとき、その場で「お返し」をするのではなく、次に困っている人を見かけたら声をかける。例えば、道端で重い荷物を運んでいる人を手伝ったり、雨の日に傘を貸したりするような些細な行為でも、恩送りは成立します。
  2. 組織や職場での恩送り
     職場で先輩に助けてもらった経験がある人は、その後輩に同じように手を差し伸べる。こうした小さな積み重ねが、組織全体の文化を温かいものに変えていきます。
  3. コミュニティ活動としての恩送り
     地域社会で恩送りの仕組みを取り入れることも可能です。例えば、地域のカフェで「次の誰かのためにコーヒーを一杯分前払いしておく(サスペンデッド・コーヒー)」という取り組みがあります。これも恩送りの一例です。
  4. デジタル時代の恩送り
     SNSでは誹謗中傷が問題になりやすい一方で、恩送り的な優しい言葉もまた広がる力を持っています。誰かに励ましを受けたなら、自分もまた別の誰かを励ます。ポジティブなメッセージを連鎖させることも、恩送りの現代的な形といえるでしょう。

広げるための工夫

 恩送りの考え方を社会に広げていくには、いくつかの工夫が必要です。

  • ストーリーとして伝える
     人は理念だけで動くのではなく、物語に心を動かされます。「あのとき助けてもらったから、今度は私が誰かを助けた」という実際の体験談を共有することで、恩送りの輪は自然と広がっていきます。
  • 教育に取り入れる
     子どもの頃から「恩は返すだけでなく、渡していくこともできる」と教えられれば、社会に出てからもその発想を持ち続けられます。学校教育や家庭での会話に取り入れることは非常に有効です。
  • 文化やイベントとして可視化する
     「恩送りの日」や、地域での恩送りイベントを開催するなど、社会的に可視化していくことも有効です。例えば、困っている人に声をかける体験を共有するワークショップなどは、実践的な学びを広げるきっかけになります。

恩送りがもたらす未来

 恩送りの輪が広がれば、社会には二つの大きな変化が期待できます。
 一つは、人々の心のゆとりが増えることです。自分が受けた恩を「必ず返さなければ」という重荷から解放されることで、より自由に優しさを表現できるようになります。
 もう一つは、社会全体の信頼感が高まることです。恩送りが文化として根づけば、「困ったときには誰かが助けてくれる」「私もまた誰かを助けたい」という前向きな空気が広がり、孤独や不安を和らげる社会的な土壌が育ちます。

おわりに

 「恩を返す」ことは大切ですが、それだけでは関係性は一対一にとどまります。恩送りの考え方は、その一対一の関係を超えて、社会全体に温かい循環を生み出します。誰かの優しさを次の誰かへと渡していく。たとえ小さな行為でも、それが積み重なれば社会の空気は確実に変わっていきます。
 現代の孤立しがちな社会だからこそ、恩送りというシンプルで柔らかな発想を、私たちはもう一度見直し、実践していく価値があるのではないでしょうか。