
「やめよう」と思っているのに、またやってしまう
~人は「思っていること」と「やっていること」が、いつも同じではない~
「もう、これはやめておこう」
そう思ったはずなのに、気がつけば、また同じことをしている。
夜更かしをやめようと思っていたのに、また遅くまでスマートフォンを見ている。
言い過ぎないようにしようと思っていたのに、また余計な一言を口にしてしまう。
人と比べるのはやめようと思ったのに、誰かの生活を見て、自分と比べて落ち込んでいる。
「無理をするのはやめよう」と決めたのに、頼まれると断れず、また頑張ってしまう。
そして、その後にやってくるのが、
「またやってしまった……」
という自己嫌悪です。
私たちは、ときどき「分かっているのに、できない自分」を責めます。
「自分は意志が弱い」
「自分はだめな人間だ」
「こんなこともやめられないのか」
そんなふうに、自分自身に厳しい言葉を投げかけてしまいます。
でも、少し考えてみたいのです。
人は、本当に「思っている通り」に生きられるものなのでしょうか。

「思う自分」と「やってしまう自分」
人間の中には、いくつもの自分がいます。
「こうしたほうがいい」と考える自分。
「こうなりたい」と願う自分。
「これはやめよう」と決める自分。
一方で、
「でも、今はこれがしたい」と感じる自分。
「分かっているけれど、これが楽だ」と思う自分。
「今だけはいいだろう」と考える自分。
そんな自分もいます。
つまり、私たちはいつも一枚岩ではありません。
頭では「やめたほうがいい」と分かっていても、心や感情は別の方向を向いていることがあります。
だから、「思っていること」と「やっていること」が違うからといって、必ずしも嘘をついているわけでも、意志が弱いわけでもありません。
むしろ、それは人間らしさの一部なのではないでしょうか。

「分かっているのに、やってしまう」の正体
たとえば、「もう人の評価を気にしない」と思っていても、誰かに褒められれば嬉しい。
「気にしない」と言いながら、SNSの反応が少なければ少し寂しい。
「無理をしない」と決めても、大切な人から頼られれば頑張りたくなる。
これは矛盾です。
でも、矛盾しているから悪いのでしょうか。
人間には、理性だけではなく、感情があります。
「こうすべき」という自分と、「こうしたい」という自分が同時に存在しています。
だから、頭で決めたことが、そのまま行動になるとは限らない。
むしろ、そこには「寂しさ」「安心したい気持ち」「認められたい気持ち」「楽しみたい気持ち」「誰かの役に立ちたい気持ち」など、さまざまなものが絡んでいます。
「やめられない行動」の奥には、もしかすると、自分でも気づいていない何かがあるのかもしれません。

自己嫌悪する前に、「なぜ?」と考えてみる
「またやってしまった」と思ったとき、私たちはすぐに自分を責めてしまいます。
しかし、そこで一度立ち止まって、
「私は、なぜまたこれをやったのだろう?」
と考えてみる。
すると、少し景色が変わるかもしれません。
「疲れていたからかもしれない」
「寂しかったのかもしれない」
「認めてもらいたかったのかもしれない」
「安心したかったのかもしれない」
「本当は、それが好きなのかもしれない」
「頑張っている自分を、誰かに分かってほしかったのかもしれない」
そう考えてみると、「やってしまった自分」が、単なる「意志の弱い自分」ではなくなります。
そこには、何かを求めている自分がいる。
そう考えるだけでも、自己嫌悪は少し和らぐのではないでしょうか。

「煩悩」という言葉も、少し面白い
仏教では、人間の欲望や執着などを「煩悩」と呼びます。
欲しい。
認められたい。
楽しみたい。
怒りたい。
もっと得たい。
手放したくない。
そうしたものを、人間は完全には消し去れません。
だからこそ「煩悩」という言葉があるのでしょう。
私は、この「煩悩」を、必ずしも悪いものとして考える必要はないと思っています。
欲があるから、頑張れることもあります。
誰かに認められたいから、努力できることもあります。
大切なものを失いたくないから、守ろうとすることもあります。
つまり、人間を動かしているものは、必ずしも理性的で、きれいなものだけではない。
少し欲張りで、少し弱くて、時々矛盾している。
それも含めて人間なのだと思います。

「良い・悪い」だけでは片付けない
もちろん、何をしてもいいという話ではありません。
自分や誰かを傷つける行動なら、見直す必要があります。
生活を壊してしまうような習慣なら、変えていくことも大切です。
ただ、そのときに必要なのは、
「こんな自分はダメだ」
と自分を裁くことではないのかもしれません。
大切なのは、
「なぜ私は、分かっているのに、これを繰り返しているのだろう?」
と、自分を知ろうとすることです。
行動を変える前に、自分の中にある「理由」を知る。
それが、案外遠回りに見えて、一番の近道なのかもしれません。

人生は「自分との付き合い方」でもある
私たちは、他人との人間関係については一生懸命考えます。
「どうすればうまく付き合えるだろう」
「どうすれば嫌われないだろう」
「どうすれば分かり合えるだろう」
でも、自分自身との付き合い方については、意外と考えていません。
「ちゃんとしなさい」
「もっと頑張りなさい」
「どうしてできないの?」
そんな言葉ばかり、自分に浴びせていることがあります。
けれど、自分自身もまた、一人の人間です。
失敗もします。
迷います。
欲もあります。
弱音も吐きます。
そして、決めたことを破ることもあります。
そんな自分に対して、
「まあ、そういう日もあるよ」
と声をかけることがあってもいいのではないでしょうか。

「やめる」ことより、「付き合い方」を考える
「これは絶対にやめる」と決めることは、とても大切です。
でも、それだけでは難しいこともあります。
だから、
「完全にやめる」ではなく、
「少し減らしてみる」
「またやってしまったら、その理由を考えてみる」
「自分を責める前に、一度立ち止まる」
という方法もあります。
人生は、何かを完全に克服していく旅だけではありません。
自分の弱さや欲望、矛盾と、少しずつ付き合えるようになっていく旅でもあるのだと思います。
「やめようと思ったのに、またやってしまった」。

そんな自分を見つけたとき、
「また失敗した」
ではなく、
「ああ、自分にはまだこんなところがあるんだな」
と、少し距離を置いて眺めてみる。
それだけでもいいのです。
人は、思っていることと、やっていることが違う。
だから、面白い。
だから、難しい。
そして、だからこそ、人間なのだと思います。
完璧に自分をコントロールすることよりも、矛盾した自分を知り、受け入れ、少しずつ付き合っていく。
そんな「心の余白」を持つことが、人生を少し楽にしてくれるのではないでしょうか。
「またやってしまった」と自分を責める前に、
「私は、何を求めていたんだろう?」
と、自分に問いかけてみる。
その問いの先には、これまで気づかなかった「自分」が、ひっそりと待っているのかもしれません。
