
共感疲労の時代に、それでも人を信じられるか
~優しさが消耗する社会の処方箋~
近年、「共感疲労」という言葉を時々耳にするようになってきました。
もともとは医療従事者や介護職、カウンセラーなど、人の苦しみに日常的に向き合う職業の人々に見られる心理的な疲弊を指す言葉と認識しておりました。
しかし現在、この現象は特定の職業だけの問題ではなくなっています。
私たちは毎日のように、SNSやニュースを通じて世界中の悲しみや怒りに触れています。
災害。
戦争。
犯罪。
いじめ。
差別。
経済的不安。
誰かが傷ついているという情報が、休みなく流れ込んできます。
本来、人の痛みに心を動かされることは素晴らしい能力です。
しかし、その量があまりにも多くなりすぎると、人は無意識のうちに心を守ろうとします。

「もう見たくない」
「関わりたくない」
「どうせ何も変わらない」
そう感じ始めるのです。
優しい人ほど疲れてしまう。
私がやさしい人とは申しませんが、そんな人は時々、爆発しかけてしまいます。「はっ!」と気づくき反省するという、、、。
皆さんもそれに近いご経験はあると思います。
それが現代社会の大きな矛盾なのかもしれません。
人を信じることが難しくなった時代
現代は情報社会であると同時に、「不信の時代」でもあります。
詐欺のニュース。
誹謗中傷。
炎上。
裏切り。
分断。
人間の負の側面が可視化される機会が増えました。
以前であれば知らずに済んでいた出来事まで、私たちは毎日知ることになります。
すると少しずつ、
「人は信用できない」
という感覚が心の中に蓄積されていきます。
もちろん慎重になることは必要です。
しかし、過度な不信感は私たちから大切なものを奪います。
それは「希望」です。

人を信じられなくなった社会では、助けを求めることも難しくなります。
誰かを助けようとする気持ちも弱くなります。
そして孤独が増えていきます。
孤独は単なる寂しさではありません。
「自分は誰ともつながっていない」
という感覚です。
人間は本来、関係性の中で生きる生き物です。
だからこそ、信頼の喪失は社会全体の活力を奪ってしまうのです。
優しさが消耗品になってしまった
昔から優しい人はいました。
しかし昔と今では決定的な違いがあります。
それは「接触する人の数」です。
かつて人間関係は家族や地域社会が中心でした。
助ける相手も、困っている相手も、顔の見える範囲にいました。
ところが今は違います。
スマートフォンを開けば世界中の苦しみが見えます。
しかも、その多くに私たちは何もできません。
目の前で苦しんでいる人がいる。
でも助けられない。
この状態が続くと、人は無力感を覚えます。
そして無力感は、共感そのものを疲れさせます。
結果として、
「もう考えたくない」
という心理状態になります。
決して冷たい人になったわけではありません。
心のエネルギーが尽きてしまっただけなのです。
現代人の多くは、知らず知らずのうちにこの状態に陥っていると思います。

共感と自己犠牲は違う
ここで大切なことがあります。
それは「共感」と「自己犠牲」は別物だということです。
優しい人ほど、この二つを混同しがちです。
誰かを助けたい。
力になりたい。
苦しみを理解したい。
それ自体は素晴らしいことです。
しかし、自分を犠牲にし続ければ、やがて心が枯れてしまいます。
飛行機の安全説明では、
「まず自分が酸素マスクを装着してください」
と言われます。
それは自分勝手だからではありません。
自分が倒れてしまえば、他人を助けることもできなくなるからです。
社会貢献も同じです。
家族を支えることも同じです。
地域活動も同じです。
まず自分自身の心を守る。
それは決して逃げではありません。
むしろ長く人を支えるための条件なのです。

それでも人を信じる理由
では、人を信じる価値は本当にあるのでしょうか。
私はあると思います。
なぜなら、人類の歴史そのものが「信頼の歴史」だと思うからです。
私たちは一人では生きてこられませんでした。
誰かが食べ物を分けた。
誰かが知恵を伝えた。
誰かが助けた。
誰かが守った。
その積み重ねによって社会は発展してきました。
ニュースになるのは悲しい出来事です。
しかしニュースにならない善意は、その何万倍も存在しています。
誰かが席を譲る。
誰かが落とし物を届ける。
誰かが相談に乗る。
誰かが寄付をする。
誰かが励ましの言葉をかける。
こうした行動は報道されません。
けれど社会は、その無数の善意によって支えられています。
私たちは悪意を過大評価し、善意を過小評価しているのかもしれません。

子どもたちに何を残すのか
私は時々考えます。
先日も書きましたが、私たちは次の世代に何を残すのでしょうか。
便利な技術でしょうか。
豊かな経済でしょうか。
もちろんそれらも大切です。
しかし、それ以上に大切なものがあります。
それは「人を信じてもいいと思える社会」ではないでしょうか。
未来の子どもたちが、
困った時に助けを求められる。
失敗してもやり直せる。
違いを認め合える。
孤独になった時に居場所がある。
そんな社会を残せたなら、それは大きな財産になるでしょう。
AIが発達しても、人間同士の信頼までは代替できません。
どれだけ技術が進歩しても、
「あなたのことを大切に思っています」
という気持ちは人から人へしか伝わりません。
だからこそ、今の大人たちには責任があります。
不信を広げるのではなく、信頼を育てること。
分断を深めるのではなく、対話を増やすこと。
諦めを伝えるのではなく、希望を手渡すこと。
それが未来への贈り物になるのです。

小さな信頼が世界を変える
社会を変えるというと、大きな改革や壮大な理想を想像しがちです。
しかし実際には、小さな信頼の積み重ねが社会を作っています。
挨拶をする。
話を聴く。
感謝を伝える。
助けを求める。
助けに応じる。
そんな当たり前の行為の中に、社会を支える土台があります。
共感疲労の時代だからこそ、私たちは世界中の人を救おうとしなくてもよいのかもしれません。
まずは目の前の一人。
身近な誰か。
家族。
友人。
地域の人。
その人との関係を大切にすることから始めればいいのです。
優しさは無限ではありません。
だからこそ使い方が大切です。
遠くの何万人よりも、目の前の一人を大切にする。
その積み重ねが、やがて社会全体の希望につながっていきます。

終わりに・・
共感疲労の時代。
優しさが消耗し、人を信じることが難しくなった社会。
それでも私は、人間に希望を持ちたいと思います。
なぜなら、人は傷つけ合う存在であると同時に、支え合う存在でもあるからです。
私たちが未来に残すべきものは、完璧な社会ではありません。
失敗しても受け入れられる社会。
違いがあっても共に生きられる社会。
そして、人を信じる勇気を失わなくて済む社会です。
子どもたちが大人になったとき、
「人間も捨てたものじゃないな」
そう自然に思える未来を残したい。
そのために今日できることは、案外シンプルです。
目の前の人の話を少しだけ丁寧に聴くこと。
そして、自分自身の心も大切にすること。
希望とは、遠い未来にあるものではありません。
誰かを信じようとする、その小さな一歩の中にこそ存在しているのです。
