「利他的な行動」と聞くと、多くの人はこう思うかもしれません。
――それは心に余裕のある人ができることだ。
――自分の生活で精一杯な時に、そんなことを考える余裕はない。

確かに、人は窮地に陥ると視野が極端に狭くなります。経済的な不安、健康問題、人間関係のトラブルなどに直面すると、頭の中は「この苦境をどう脱するか」だけで占領されます。これは人間として自然な反応であり、責められるものではありません。

しかし同時に、この状態が長く続くと、人は「生き延びるためだけに生きる」状態に入り込みます。自分の価値を感じる余地も、未来を描く余白も失われ、自己肯定感や自己効力感はじわじわと削られていきます。

ここに、利他的な行動の本当の意味があると私は考えています。

利他は「自分を後回しにすること」ではない

利他的な行動という言葉は、しばしば誤解されます。
自分を犠牲にして他人に尽くすこと、無理をして善行を重ねること、そうした自己消耗型の行為を指すように受け取られがちです。

しかし、本来の利他はそうではありません。
「自分ができる範囲で」「無理なく」「小さく」他者に目を向けること。
この条件が欠けた利他は、むしろ長続きしませんし、本人を疲弊させます。

たとえば、
・相手の話を少し丁寧に聞く
・ありがとうを言葉にする
・困っていそうな人に一言声をかける
・自分の経験を誰かの役に立つ形で共有する

こうした行動は、特別な能力も時間も必要としません。それでも確実に「他者とのあいだ」に温度を生み出します。

窮地にいる時こそ、利他は力を持つ

人が窮地にいる時ほど、利他的な行動は意味を持つと私は思っています。
一見すると逆説的ですが、これは心理学的にも説明がつきます。

人は「誰かの役に立てた」という感覚を持った瞬間、自分の存在価値を再確認します。
「自分は無力ではない」
「まだできることがある」
この小さな実感が、自己効力感の芽になります。

窮地にいる時、人は「できないこと」「失ったもの」「足りないもの」ばかりを数えます。そこに、利他的な行動という形で「できたこと」が一つ加わる。それだけで、心の天秤はわずかに戻り始めます。

そして重要なのは、利他は結果を求めなくてよいという点です。相手から感謝されなくても、状況がすぐに改善しなくても構いません。「行動した」という事実そのものが、自分の内側に効いてくるのです。

利他が生む「暖かいコミュニケーション」

利他的な行動が積み重なると、社会には独特の空気が生まれます。
それは制度やルールでは作れない、柔らかくて暖かい空気です。

誰かが誰かを少し気にかける。
それを受け取った人が、別の誰かに少し優しくする。

この循環は目に見えにくく、数値化もできません。しかし確実に、住みやすさとして体感されます。「この場所では、人を信じてもいいかもしれない」という感覚は、こうした小さな利他の連鎖から生まれます。

逆に言えば、利他が失われた社会では、人は常に防御的になります。損をしないために壁を作り、他者を警戒し、コミュニケーションは冷え込みます。結果として孤立が進み、ますます自己肯定感が下がるという悪循環に陥ります。

利他と自己肯定感は対立しない

「自分を大切にすること」と「他人を大切にすること」は、しばしば対立概念のように語られます。しかし私は、この二つは本来、相互に支え合う関係だと考えています。

健全な利他は、自分をすり減らしません。
むしろ、「自分には人に与えられるものがある」という実感を通じて、自己肯定感を底上げします。

そして自己肯定感が育つと、他者に対して余裕を持って関われるようになります。この循環こそが、社会を内側から温める力になります。

利他は社会を変える前に、自分を立て直す

最後に強調したいのは、利他的な行動は「社会を良くするための義務」ではないという点です。
それはまず、「自分を立て直すための行為」でもあります。

窮地にいる時、世界は敵のように見えることがあります。そんな時こそ、小さな利他は「世界ともう一度つながり直す」ための細い糸になります。その糸はやがて、自分自身を引き上げるロープに変わっていきます。

一人一人の利他的な行動は、派手ではありません。革命のように見えることもありません。しかし、社会という土壌を静かに耕し、人が人として生きやすい環境を作っていきます。