「私が通ったら、さわやかな風が吹いてくるような人間になりたい。」

今から30年以上前、サラリーマン時代に勤めていた小さな会社の社長が、時折口にしていた言葉です。当時の社長は三十八歳。子どものような無邪気さと、大人としての幅のある人間性を併せ持った、不思議な魅力のある人でした。成果や数字を声高に語るよりも、こうした一見抽象的な言葉を大切にしていた姿が、今でも記憶に残っています。

当時の私は、その言葉をどこか「理想論、空想論」として聞いていたように思います。しかし、歳月を重ね、さまざまな立場や経験を経た今、その言葉が持つ意味を、以前とはまったく違う角度から受け止めるようになりました。当然ながら、当時の社長は三十八歳ですので、まだまだ若くて社長としての経験は浅く、今思えばよくもそういう言葉を発したな~と思いますが、彼は偉大な父親(親会社の会長)から「帝王学」というものを知らず知らずのうちに学ばれていたのだと思います。私も一応は企業経営者の立場にはありましたが、努力とか勉強をして身につくものではない部分であります。恐らく、そこから生まれているのだと思います。真顔で社員の前で言ってのけることができるのですから。

それからずいぶんと年月が経ちました。現在、私はこの「さわやかな風が吹いてくるような人間でありたい」という言葉を、自分自身の中で意識的に使うようにしています。決して、良い人に見られたいとか、格好をつけたいという理由ではありません。むしろ逆で、物づくりを生業としてきたがゆえに染みついた、バタ臭い思考や、効率や正解を優先しがちな行動を、一度立ち止まって見直すための“合言葉”として使っているのです。

物づくりの世界では、結果がすべてです。スピード、合理性、完成度。そうした価値観に身を置き続けると、知らず知らずのうちに、人との関係や場の空気に対しても、同じ物差しを当ててしまいがちになります。相手の話を最後まで聞く前に結論を出してしまったり、正しさを優先するあまり、余白(遊び)を削ってしまったりすることもあります。

そこで私は、何か判断を下すとき、人と接するとき、あるいは新しい企画を考えるときに、ふと自分に問いかけるようにしています。「今の自分は、さわやかな風を通しているだろうか」と。

不思議なもので、この問いを一度挟むだけで、言葉の選び方が変わったり、行動のスピードが少し緩んだりします。結果として、感情的になりそうな場面で自制が効いたり、思いもよらない視点が浮かんできたりすることがあります。これは自己啓発的な話ではなく、実感として何度も経験してきたことです。

さらに興味深いのは、この「さわやかな風の意識」を持ち続けていると、自然と人との巡り合いにも変化が生まれる点です。こちらが誰かを評価しよう、利用しようとする姿勢ではなく、「場を重くしない存在でいよう」と心がけていると、不思議と同じような感覚を持った人が集まってくる。そう感じる場面が増えてきました。

「さわやかな風が吹く人」とは、決して完璧な人間ではありません。何かを教え諭す人でも、正論を振りかざす人でもないと思います。その人が通ったあと、場の空気が少し軽くなる。話し終えたあと、相手が自分を過度に責めずに済む。意見が違っても、関係が壊れずに余白が残る。そうした“結果”をもたらす存在ではないでしょうか。

この意識は、他人のためだけのものではありません。自分自身を守るためのものでもあります。社会や組織、あるいは活動の現場では、正しさや責任を背負う場面が増えれば増えるほど、心が硬くなりがちです。その硬さに無自覚なまま進んでしまうと、気づいたときには周囲との距離が広がっていることもあります。

だからこそ、「さわやかな風」という、あいまいで、数値化できない言葉が、私にとっては重要なのです。この言葉は、目標ではなく、方向を確認するための指標です。到達すべき理想像ではなく、今の自分の立ち位置を測るための感覚的なものだと言えるでしょう。

三十年以上前に聞いた社長の言葉は、当時のままの形で残っているわけではありません。私自身の経験や失敗、迷いを通して、別の意味をまといながら、今の私の中で生きています。その言葉を使い続けることで、私は日常を少しずつリノベーションしているのかもしれません。

「さわやかな風が吹いてくるような人間でありたい」。
この言葉を口にするたびに、私は自分に問い直します。今の振る舞いは、人を重くしていないか。場の流れをせき止めていないか。もし風が通るとしたら、どこに余白を残せるだろうか、と。

答えは毎回違いますし、うまくいかない日もあります。それでも、この問いを持ち続けること自体に意味がある。そう感じながら、これからも私は、この「さわやかな風の意識」と共に歩んでいきたいと思っています。