当団体においてシンポジウムも開催しましたが・・
◆コミュニケーション教育の欠如は構造的問題である

近年、医療現場における患者と医師との関係性に注目が集まり、「信頼に基づいたコミュニケーション」の重要性があらためて指摘されるようになってきました。しかし、実際の医療現場では、患者が医師とのやりとりにストレスを感じたり、不信感を抱いたりするケースがいまだに少なくありません。その背景にあるのは、単に個々の医師の態度や資質に起因する問題ではなく、医師養成の過程における「コミュニケーション教育の欠如」という、構造的な問題です。

まず、現在の医学教育カリキュラムにおいて、「医療コミュニケーション」を専門的に学ぶ機会は極めて限られています。医学部では、6年間のうち大半の時間が解剖学、生理学、病理学などの自然科学的知識と臨床技術の習得に充てられており、人間関係や心理的な側面、さらには患者の語りをどう受け止めるかといった教育は、ごく一部の講義にとどまっています。そのため、多くの医師が「どう伝えるか」「どう聴くか」を体系的に学ばないまま現場に出てしまうのが現実です。

一方で、医師という職業は、高度な専門知識と同時に、高いコミュニケーション能力が求められる職業でもあります。患者は単なる「治療対象」ではなく、一人の生活者であり、価値観や人生観、家庭環境などの違いを抱えています。こうした多様な背景を持つ患者と信頼関係を築き、納得のいく医療を提供するには、「共感」「説明」「傾聴」「調整」などの対人スキルが不可欠です。にもかかわらず、そのスキルが“学ぶもの”として扱われていないのは、まさに構造的な盲点と言えるでしょう。

さらに、この問題は教育の側だけでなく、評価や制度の側面にも影を落としています。現在の国家試験や医師免許取得における評価基準は、あくまでも知識と技能の確認が中心です。実際に、どれだけ患者に寄り添った診療を行えるか、丁寧に話を聴いているかといった側面は、評価対象にはなりづらいのが現状です。これにより、「話す力」「聴く力」を育む意欲が後回しにされがちになってしまいます。

さらに、医療現場の過酷な労働環境もこの問題に拍車をかけています。長時間勤務、診察の時間的制約、書類業務の煩雑さなどにより、医師が一人ひとりの患者とじっくり向き合う余裕がなくなると、たとえコミュニケーション能力を持っていても、それを発揮できない状況が生まれます。つまり、構造的な問題とは、教育の不足だけでなく、「コミュニケーションを実践する余地がない」という勤務環境の構造にも関係しているのです。

また、日本社会の文化的背景も無視できません。伝統的に「先生=権威」という見方が根強く残る中で、医師主導の一方的な診察スタイルが長らく容認されてきました。患者も「質問してはいけない」「文句を言うのは失礼」と感じてしまい、本音を伝えられないまま診察を終えてしまうケースも多々あります。こうした文化的風土は、医療におけるコミュニケーションを「対等な対話」ではなく「片側通行の情報提供」として捉えてしまう傾向を助長しています。

こうした課題に対し、欧米諸国では早くから構造改革が進められてきました。たとえばアメリカやイギリスの多くの医学校では、模擬患者とのロールプレイやビデオによる自己評価を取り入れたコミュニケーション教育が義務化されており、患者中心の医療を実践できるような訓練が行われています。日本でも一部の大学や研修病院で試みが始まっていますが、まだ広く制度として定着しているとは言えません。

では、この構造的問題をどうすれば変えられるのでしょうか。まずは医学教育の中に「対話力」を育てるカリキュラムを本格的に導入することが第一歩です。それに加えて、現場の医師に対しても、定期的なコミュニケーション研修を義務づける制度設計や、患者のフィードバックを評価に反映させるしくみづくりが求められます。また、患者の側にも「質問してよい」「気持ちを伝えてよい」というメッセージを伝える市民啓発も並行して進めていく必要があります。

コミュニケーションは一人の医師の「性格」や「善意」に任せるべきものではなく、医療全体の土台を支える技術であり、専門性です。この構造的な欠如に目を向け、教育・制度・文化の三つの側面から見直すことこそが、より人間的で信頼ある医療への第一歩となるのではないでしょうか。