
「“多様性”って、本当に人を幸せにしているのでしょうか?」
この数年、あらゆる場面で耳にするようになった“多様性”という言葉。ですが、ふと立ち止まってみると、何かモヤモヤする気持ちが残ることはありませんか?
たとえば、違いを尊重するはずの多様性が、「こうあらねばならない」という新たな正解のように使われていたり、誰かの声を拾うために、別の誰かの声が消されてしまったり。本来、私たちが守りたかった「人と人との温かいつながり」や「丁寧な対話」が、多様性という言葉の陰で、いつの間にか置き去りにされているような感覚を時々感じておりますが、皆さんはどうですか?
私自身、こういった違和感を覚えるたびに、「じゃあ本当の“つながり”って何だろう?」「“共にある”って、どういうことなんだろう?」そんな問いが浮かびます。

近年、「多様性(ダイバーシティ)」という言葉が、まるで魔法のように社会のあらゆる場面で用いられるようになっています。企業、教育、芸術、政策、地域コミュニティ……それは社会の隅々にまで浸透し、もはや反論することすら“時代錯誤”とされかねない空気が漂っていませんか?しかし、私たちは一度立ち止まり、問うべきだと思うのですよね。果たして今、語られている多様性は、私たちが本来守りたかった「何か」を置き去りにしてはいないだろうか?
もともと多様性とは、人種・性別・年齢・宗教・思想・身体的条件・価値観といった、異なる背景を持つ人々が共に存在し、それぞれの違いを認め合いながら協働できる社会のあり方を指すものと、私は理解しています。そこには、“違いを排除せず、共に生きる”という大切な理念が込められていたはずですよね。しかし現在、それが形式化・スローガン化し、現場や実情とは乖離したまま独り歩きしているケースが目立ってきたと思っています。

たとえば、能力や適性よりも属性(性別・国籍・LGBTQ等)を優先した人材選抜が行われたり、文化的・宗教的背景を配慮しすぎて本来の伝統や秩序が軽視されたりする場面が増えていたり、また、あらゆる言葉や表現に「誰かが傷つくかもしれない」と過剰反応し、自由な議論や表現が萎縮してしまうことも、あるようになってきています。
これらは決して“多様性そのものが悪い”のではなく、それが社会的トレンドとして使われるうちに、文脈や目的、現場の実情が抜け落ちたことによる副作用と言えないでしょうか?形式的な多様性の追求が、逆に“本当の個性”や“誠実な対話”を押しつぶしているのだと。
日本におけるこの傾向は、ある意味で私たちの国民性とも無関係ではないのかもしれません。震災や災害において一致団結して行動できる素晴らしさの裏側には、「みんながやっているから」という空気に敏感すぎる文化があると思います。その結果、「今は多様性が正義だ」とメディアや行政が発信すれば、それを疑問視すること自体が“差別的”とされ、声を上げづらくなりますよね。

問題は、“空気”に押されて一斉に何かをもてはやし、また突然手のひらを返すように批判に転じるという、極端で断続的な世論形成が当たり前になりつつあることだと思います。かつては「SDGsこそ未来の希望」と叫ばれましたが、数年経てば「形骸化して意味がない」との声が広がった、リモートワークも、脱炭素も、働き方改革も、同じパターンを繰り返しているように思えてなりません。
その中で、私たちが本当に守るべきもの――たとえば、地道な努力、信頼関係、現場の知恵、そして時には“不便さ”や“非効率”の中にある人間らしさ――が、静かに消えていってはいないでしょうか。多様性という言葉を掲げるあまり、「場の秩序」や「専門性」、「文化的文脈」や「ローカルな価値観」といった“多様性を受け入れる土壌”そのものが軽視されるとすれば、それは本末転倒と言わざるを得ません。

私たちが本当に必要としているのは、「多様性」という言葉を使うことではなく、多様性の意味を咀嚼し、現場の目的と照らし合わせた上で、時に“あえて選ばない”勇気や、“違和感を放置しない”知性を持つことだと思うのです。

「多様性」が必要なのは、誰かを無理やり参加させることではなく、今そこにいる人たちの“異なり”を見逃さず、尊重し、共にあり続けること。その過程でこそ、本当の“つながり”や“信頼”が生まれ、結果として誰もが自分らしく生きられる土壌が築かれていくのではないでしょうか?