その背景と私たちの生き方

「病気が増えている」。
この言葉を耳にしたとき、多くの人は“高齢化のせい”だと考えるかもしれません。しかし、現実はそれだけではありません。実際、国の統計を見ても、難病・精神疾患をはじめとする慢性疾患の患者数は年々増加しています。しかも日本の総人口は減少傾向にある。――この矛盾のような現象は、何を意味しているのでしょうか。指定難病受給者証を持っている人の参考資料→こちら(難病情報センター)

■ 病名が増える社会、病む人が増える社会

まず見逃せないのは、「病名が増えている」という事実です。
医学の進歩は喜ばしいことですが、その過程で“診断の精度”が上がり、かつて「原因不明」や「気のせい」と片づけられていた症状に、明確な病名がつくようになりました。

多発性硬化症(MS)、視神経脊髄炎(NMOSD)、MOG抗体関連疾患(MOGAD)といった神経難病の領域もその典型です。抗体の発見やMRI技術の進歩により、これまで見過ごされていたケースが“見える化”された。その結果、確定患者数、すなわち医療証の発行数は急増しています。

これは単に「病気が増えた」というよりも、「病気として認識されるようになった」と言うべきかもしれません。診断技術の進歩がもたらした、医療の“拡張”ともいえます。

しかし――ここで立ち止まる必要があります。
「病名がつくことで救われる人がいる」一方、「病名に縛られてしまう人」も増えているという現実です。医療が進化するほど、“病”の概念は社会全体に深く入り込む。それは、私たちの「生き方」そのものに影響を与えるほどの変化をもたらしています。

■ 増え続ける精神疾患 ― “心の時代”の副作用

精神疾患の患者数の増加も、無視できません。
厚生労働省の統計によれば、うつ病、不安障害、発達障害、統合失調症など、いずれの疾患も過去20年間で顕著な増加を示しています。

では、なぜ心の病が増えているのか。
その背景には、現代社会の“情報過多”と“つながりの希薄化”があるように思えます。

私たちは今、かつてないほど多くの情報に触れていますが、その一方で、誰かと本音で話す時間は減っています。SNSでは「つながっているようで、孤独」という状態が常態化し、職場や家庭でも“空気を読む”ことが優先され、感情を出すことが難しくなっています。

結果として、心のバランスを崩す人が増える。
そして、それを支える医療も、かつての“異常者を治療する場所”から、“誰もが通う相談の場”へと変わりつつあります。

つまり、現代日本における精神疾患の増加は、個人の問題ではなく、「社会構造の病理」ともいえるのです。

■ “病む社会”が映し出す価値観の変化

人口が減る中で病気が増えるという現象は、数字だけ見れば奇妙に思えますが、実はそれは「社会の鏡」でもあります。

日本社会は、戦後から高度経済成長期を経て、長く“健康=働けること”という価値観で動いてきました。
しかし、成熟社会に入り、“生きがい”や“心の豊かさ”が注目されるようになると、人々の意識が変わりました。

たとえば、以前なら「多少の不調は我慢して働く」ことが美徳だったものが、今は「つらいなら無理しない」という選択肢が認められるようになりました。
これは社会が優しくなった証でもありますが、同時に、“病気としての認識”が広がったとも言えます。

つまり、私たちは「健康」と「病気」の間のグラデーションを細かく見分ける社会になった。
これは良い変化であると同時に、社会が「少しでも違和感があれば医療に委ねる」傾向を強めていることを意味します。

■ 〈病〉が社会を映す“センサー”であるなら

ここで改めて、問い直してみたいと思います。
――病気が増えているのではなく、“病気として捉える社会”が拡がっているのではないか。

もしそうだとすれば、私たちが向き合うべきは「医療」そのものよりも、「社会のあり方」かもしれません。

病気の増加は、個々の体や心の問題であると同時に、社会全体のストレスや孤立、価値観の偏りを反映した“センサー”なのです。
たとえば、若者のうつ、働く世代の自律神経失調、シニア世代の認知症――いずれも社会の変化に敏感に反応している存在といえます。

そして、難病の分野でも同じことが起きています。
医療の発達によって命は守られるようになりましたが、その一方で、病気とともに“生き続ける時間”が長くなりました。
この「長く生きる時代」において、病をどう受け止め、どう生きるかが新しいテーマになっているのです。

■ 「治す」から「ともに生きる」へ

多発性硬化症、視神経脊髄炎、MOG抗体関連疾患――いずれも完治が難しい病です。
それでも、医療は進み、再発予防や症状のコントロールが可能になってきました。
かつては「治らない病」だったものが、今では「付き合っていける病」になりつつある。

つまり、医療のゴールが「治す」から「ともに生きる」へと移りつつあるのです。
この変化は、単に医学的な話ではなく、社会の意識の転換をも意味します。

病とともに生きることを恥じる時代から、病を抱えながらも社会とつながる時代へ。
病気を“終わり”ではなく“もう一つの始まり”として捉えること。
それこそが、これからの時代に求められる新しい健康観ではないでしょうか。

■ 終わりに ― “病む社会”に問われるのは、共感力

人口が減っても病気が増える社会。
それは、医療の進歩や統計上の数字の問題にとどまりません。
本質的には、「社会の温度」が問われているのだと思います。

私たち一人ひとりが、他者の痛みや不安にどれだけ寄り添えるか。
“理解された”という実感こそが、薬では届かない回復をもたらすことがあります。

病が増えることを「社会の危機」と見るか、「人が人を思う契機」と見るか。
この分岐点に、私たちはいま立っているのかもしれません。

病が語りかけているのは、身体や精神の異常ではなく、
「もっとやさしい社会になろうよ」という、小さな声なのではないでしょうか。