
― 組織の“魂”が形骸化するプロセスー
組織シリーズの最後です。論調を変えて雰囲気を締めてます笑。
かつて、ひとりの思いから始まった組織がある。
そこには、確かな熱があった。理不尽な現実を変えたい、同じ痛みを抱える人たちに希望を届けたい――そんな切実な願いが、理念という旗となって掲げられた。
理念とは、本来“生きもの”のようなものだ。人の感情や経験に根ざし、そこに共鳴した者たちが集まることで、息づいていく。だが、時間が経つにつれ、その理念はいつしか“掲げるためのもの”へと変わっていく。
この変質は、特定の組織に限らない。企業でも、医療機関でも、患者団体でも、同じように起こりうる。創設者の思いが遠のくほどに、組織の“魂”は形骸化していく。そのプロセスには、心理的メカニズムと権力構造の微妙な歪みが、静かに影を落としている。

■ 理念の「形式化」が始まるとき
理念は本来、「人の心の中」にあるものである。
だが、組織が成長し、人数が増え、制度やルールが整備されていくと、理念は次第に「言葉の外」に追いやられる。たとえば、「患者の立場に立つ」「誰も取り残さない社会を目指す」――それらの言葉は、誰も反対しないがゆえに、逆に曖昧になっていく。
心理学的に見ると、ここには「認知的簡略化」の作用があると聞いた。人は複雑な理念を、理解しやすい形に単純化しようとする。かつての理念が「現場で何をどう行動すべきか」を導く“灯”であったのに対し、形式化された理念は「ポスターの標語」へと変わっていく。
このとき、理念を“語る人”と“感じる人”の間に距離が生まれる。理念を守ろうとする側ほど、理念を文字通りに扱う傾向が強くなる。言葉の力を信じるがゆえに、言葉に閉じ込めてしまうのだ。

■ 「目的」と「存在理由」のすり替え
組織が成熟するにつれ、「何のために存在しているのか」という問いが薄れる。代わりに、「どう維持するか」「どう評価されるか」という思考が前面に出てくる。
ここに、理念の形骸化の第二段階がある。
“理念のために働く”のではなく、“理念を掲げるために働く”ようになる。
このすり替えは、外から見ればわずかな違いだが、内側では決定的な断絶を生む。
理念が「行動を生む源」から「存在を正当化する証拠」へと変わっていくのだ。
たとえば、患者団体であれば、当初は「困っている人を助ける」ことが目的であったはずが、いつの間にか「団体の存続」「助成金の確保」「活動報告の充実」が主たる関心になっていく。
それ自体が悪ではない。持続のためには制度的基盤が必要だ。
しかし、組織が“生き残るための仕組み”を作ると、その仕組みがやがて理念より強くなる。
この現象は、社会学でいう「手段の目的化」である。よくある事と聞くし、体現した事でもある。
目的を実現するために作った制度や規則が、いつしか自らを守るために存在し始める。
理念はその中で、空洞化していく。

■ 権力構造がもたらす“理念の支配”
理念を守るために作られたリーダーシップが、理念を縛る構造に変わることがある。
創設者や幹部層は、理念を「自分たちの言葉で説明できる人たち」として尊敬を集める。
しかし、時間が経つと、その言葉が“解釈の独占”を生み出す。
つまり、「理念をどう理解すべきか」を決める権限が、少数の人間に集中するのだ。
これは心理的には、以前にも書いたが、「集団同調バイアス」と「権威効果」の相互作用で説明できる。組織の中では、理念を語る“上位者”の言葉が、無意識のうちに絶対化される。下の立場の人々は、自分の感覚的な違和感を言葉にできず、「そういうものだ」と思い込む。理念は“生きた対話”ではなく、“固定された教義”になる。
このとき、理念は人のための羅針盤ではなく、“支配の道具”に変わる。
理念を疑うことが、理念への裏切りと見なされる空気が生まれる。
組織はその瞬間から、変化する社会に対応できなくなる。

■ 「理念疲労」という静かな病
理念の形骸化が進むと、現場で働く人々に特有の“疲労”が現れる。
思考を進めていくとこの様な現状に出くわした。それが「理念疲労(value fatigue)」である。
これは、理念と現実の乖離に気づきながらも、声を上げられない状態を指す。
たとえば、「患者中心」と掲げながらも、実際には手続きや報告書作成に追われ、患者の声を聴く時間がない。
「支援」と言いながら、支援対象者の“都合の良い声”しか取り上げない。
そんな矛盾の中で、人は次第に理念に対して無感覚になっていく。
理念疲労の怖さは、怒りではなく「無関心」を生む点にある。
“理念を大切に思う心”が摩耗していく。
理念を批判する人より、何も感じなくなる人が増える方が、組織にとって深刻なのだ。

■ 「理念を守る」とは、理念を疑うこと
理念が人を離れていくのを防ぐ唯一の方法は、「理念を問い続ける文化」を持つことである。
理念は“守るもの”ではなく、“更新し続けるもの”だ。
心理学的に言えば、これは「認知的柔軟性」を組織に持たせないといけないとの事。
理念を固定化せず、時代や状況の変化に応じて再解釈する余地を残す。
「理念とは何か」を定期的にメンバー全員で議論することが、理念を“生かす”ことになる。
理念を疑うことは、理念を否定することではない。
むしろ、「なぜこの理念を掲げたのか」「いまもそれは現実に届いているか」と問い直すことで、理念に再び命を吹き込むことができる。
たとえば、患者団体であれば、設立当初の理念を若い世代が自分の言葉で語り直す場を設けることが有効だ。創設者の精神を形式ではなく“共感”で継承する。それこそが理念を人間の手に取り戻す営みである。

■ “理念の魂”を再び灯すために
理念とは、目的やスローガンではない。
それは、誰かの「痛み」や「願い」から生まれた、人間の感情の結晶だ。
その原点に立ち返るとき、理念は再び力を取り戻す。
組織の中で理念が形骸化するのは、理念が悪いからではない。
むしろ、理念が“良すぎる”からだ。誰も反対できない理想は、いつしか誰も考えない標語になる。
だからこそ、理念は常に“人の言葉”として語り直されなければならない。
理念の灯を絶やさないために必要なのは、「理念を感じる時間」と「理念を語り合う場」だ。
効率よりも、立ち止まる勇気。正解よりも、共感を優先する空気。
そこにこそ、組織の“魂”は宿る。
そして、その魂は組織が続く限り、誰かの中で息をし続ける。
理念が人を離れていくのではなく、人が理念を生かしていく。
その循環を守ることこそ、私たちが組織に関わる最大の使命なのではないだろうか。

特に、公金や膨大な額の一般の人達の"ご浄財"が投入されている組織においては、その意識を強く持って頂くのは当然の事だ。
その様に思う。怠惰な状態に陥っている組織ほどその意識が薄いのは自明の事ではあるが・・。