
脳と心の若さを保つ力
私は、人の行動を観察することが好きです。
といっても、いわゆる“のぞき見”のようなものではありません。駅のホームやカフェ、街角のベンチなどで、行き交う人々を眺めながら「この人はどんな一日を過ごしているのだろう」「あの表情の奥にはどんな思いがあるのだろう」と、勝手にストーリーを紡ぐのです。言うなれば、ヒューマン・ウォッチングと言いますか、そんな事が習慣になっています。けれど、この行為が私の人生の創造性や思考の柔軟さに、思いのほか大きな影響を与えてきたように感じています。
若い頃には単なる“暇つぶし”にすぎなかったこの習慣が、年齢を重ねるうちに「人間とは何か」を考える入口になり、さらには「自分自身を観察する」時間にもなってきました。観察とは、対象を通して自分を見ることでもあります。人の仕草や表情の変化を見つめながら、自分の中の感情や記憶が呼び起こされる――その往復運動の中に、創造の芽が生まれているように思うのですね。

■ 観察することは“感じる力”を養う
観察という行為は、単に「見る」ことではありません。
そこには、「感じ取る」「想像する」「共感する」といった多層的な心の動きが伴います。たとえば、駅のホームで立ち尽くす一人の若者を見たとき、私たちはその姿から寂しさを感じたり、何かを決意しているようにも見えたりします。実際にはその人が何を思っているのかはわかりません。しかし、その“わからなさ”の中にこそ、想像の余地が生まれます。
この想像こそが、人間の脳を最も活性化させる作業だと私は思います。なぜなら、想像とは記憶や感情、知識といった脳内のさまざまな情報をつなぎ直し、新たな意味を生み出す行為だからです。つまり、人を観察することは、自分の内なる創造エンジンを回す行為でもあるのです。
また、人を観察するうちに、「自分とは違う他者の存在」を自然に受け入れる力が培われます。現代社会では、価値観の違いや多様性がしばしば衝突を生みますが、観察を通して「他者を理解しようとする姿勢」を身につけている人は、対立よりも共感を選びやすい。観察は、共感力の基礎訓練でもあるのです。

■ 脳は「使い続ける」ことで若さを保つ
ここで、以前より興味のある生命科学の話を少ししましょう。
近年の脳科学では、「脳の可塑性」という言葉が注目されています。これは、年齢を重ねても脳の神経回路は経験によって再構築され、新たな刺激に応じて変化し続けるという性質です。つまり、脳は年を取っても“使い方”次第で若返るのです。
その鍵となるのが「新しいことへの関心」と「創造的な行動」です。
観察とは、まさに日常の中で新しい刺激を自ら見つける行為です。しかも、それを「ストーリーとして意味づける」ことで、脳は単なる情報処理を超えて、創造的な統合を行います。これは、パズルを解くよりもはるかに複雑な神経活動を伴います。ヒューマン・ウォッチングは、いわば“日常に潜む脳トレーニング”なのです。
年齢を重ねると、私たちはつい「知っていること」「慣れたこと」に安住しがちです。しかし、その安定が脳の衰えを招きます。脳にとっての若さとは、情報の新陳代謝にほかなりません。新しい刺激を取り入れ、それに自分なりの意味を与える――この営みこそが、脳の活性化を保つ最良の方法だと思います。

■ 「飢餓」がもたらす生命の再生メカニズム
ここで、身体の側面からも見てみましょう。
生命科学の分野では、「オートファジー(自食作用)」という言葉がよく知られるようになりました。細胞が古くなったタンパク質を自ら分解し、再利用する仕組みのことです。ノーベル賞を受賞した大隅良典教授の研究でも明らかにされたように、このオートファジーは細胞の若さを保つために不可欠な機能であり、断食や飢餓状態などによって活性化することが知られています。
つまり、ある種の“負荷”や“飢え”が、細胞を再生へと導くのです。
この現象は、心や脳にも共通するのではないかと感じます。たとえば、暇な時間や孤独な時間――現代ではしばしば“退屈”と片付けられてしまうそれらの瞬間こそ、実は脳にとっての「精神的オートファジー」の時間ではないでしょうか。
人を観察しながら想像を膨らませる時間には、SNSの通知も、他人の評価も関係ありません。静かな飢餓状態のような心の空白が、逆に創造のエネルギーを再生させる。過剰な情報に満たされた現代においては、この“余白”の時間がいかに貴重であるかを改めて感じます。

■ 無為の中の“働き”
観察している時間というのは、一見「何もしていない時間」に見えます。
しかしその実、脳は非常に精緻な働きをしています。視覚、聴覚、記憶、感情、思考――それらを同時に統合し、無意識のうちに無数の仮説を立てています。たとえば、向かいのベンチに座る人の姿勢ひとつで、「この人は疲れているのか、それとも考え事をしているのか」と、私たちは瞬時に判断しています。これは意識していないだけで、脳が全力で働いている証拠です。
古来より、「無為の中に働きあり」と言います。
何もしていないように見える時間にこそ、心の深層が動いている――それは脳科学的にも、創造性の源泉が“ぼんやりした時間”に宿るという研究結果と一致します。観察とは、この“無為の働き”を意識的に活用する方法なのだと思います。

■ 「観察力」は人間理解の核心
観察を重ねていると、人間の行動の中には共通の“リズム”のようなものがあることに気づきます。
たとえば、誰かがスマートフォンを見て微笑む瞬間、そこには「他者とのつながり」が感じられます。あるいは、疲れた顔で改札を抜ける人の背中には、「社会に生きる」という共通の重みがあります。人の行動を通して私たちは、自分もまた同じ営みの中にいることを再確認するのです。
観察とは、他者を理解するための第一歩であり、人間関係の潤滑油でもあります。医療、教育、福祉、あらゆる対人支援の現場では、この観察力が欠かせません。相手の表情、声のトーン、動作――そのわずかな変化に気づけるかどうかが、信頼関係を築く鍵となります。観察とは、やさしさの前提条件なのです。

■ 生きるとは、観察し続けること
私たちは、生きている限り、何かを見て、感じて、意味づけ続けています。
それは言い換えれば、「観察する」ということそのものです。観察とは、外の世界を理解するためだけでなく、自分の内面を磨くための行為でもあります。年齢を重ねるほどに、感情の起伏は穏やかになり、驚くことも減っていきます。しかし、人を観察する心――すなわち他者への興味や想像力を持ち続ける限り、脳も心も老いません。

観察は創造の種であり、心のストレッチであり、人生を豊かにする小さな習慣です。
忙しさに流されがちな現代において、ただ人を眺める時間を持つ――それは、脳を整え、感性を保ち、そして何より「人間らしさ」を思い出すための、静かな再生の儀式なのかもしれません。