
多様性の「大義名分化」による論理の混乱と、その再考の必要性
近年、「多様性(ダイバーシティ)」という言葉が、まるで万能の価値観のように用いられる場面が増えてきました。多様性を尊重すること自体は当然のこととして、多くの人々がそれに異論を挟むことはないでしょう。しかしながら、その「多様性」がある種の大義名分として用いられ始めると、そこには論理の飛躍や、本来議論されるべき問いが見えなくなるという危うさが潜んでいます。

特に日本社会においては、「多様性を認めないのは悪」「異なる価値観を否定するのは時代遅れ」といった風潮が一種の”正義”として流通しています。その結果、どのような主張も「多様性の尊重」の名のもとに正当化され、異論を呈すること自体が困難になる雰囲気が生まれています。
このような状況は、アメリカにおいても一時期同様に見られました。しかし、トランプ政権以降、米国ではこの「ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)」や「多様性至上主義」に対する反動が生まれ、それを見直す動きも少しずつ広がっています。多様性の価値そのものを否定するのではなく、過剰な理念化によって社会の分断が進んでいることへの懸念が背景にあります。

それに対して日本では、欧米の言説を表面的に輸入し、文化的背景や社会構造への適応を経ないまま、「多様性はよいものだ」というスローガンだけが一人歩きしているように感じられます。このスローガン的運用が招いているのが、「おかしな結びつけ」の氾濫です。
たとえば、「多様性の尊重」を掲げながら、特定の考え方に対する批判が封じられる場面が増えています。少数者への配慮を理由に、多数者の意見が排除されるという本末転倒な事例も見受けられます。「誰もが尊重される社会」の実現が目的であったはずなのに、現実には“声の大きな少数”が“声を出さない多数”を抑え込む構図が生まれているのです。

また、性別、国籍、宗教、障害など、さまざまな属性における“違い”を強調するあまり、「共通するもの」「共有できる価値」について語ることが避けられる傾向すらあります。本来、社会的な共生とは「違いを認め合いながらも、共通の基盤を探る」営みであるべきなのに、「違いを強調することでしか社会正義を語れない」ような極端な方向に向かっていることは問題です。
さらに深刻なのは、多様性を掲げることによって、「対話」や「相互理解」の努力が省略されてしまう点です。多様性を尊重するという言葉の裏には、「相手を理解しようとする姿勢」や「歩み寄りのプロセス」が不可欠なはずです。しかし、現在の社会では、多様性の言葉がある種の“免罪符”のように使われることが少なくありません。「私はマイノリティだから受け入れられて当然だ」「異なる価値観を否定するな」という主張が、「では、あなたは他者を理解しようとしているのか?」という問いを封じてしまいます。

このような状況が続けば、多様性は「つながりをつくる言葉」ではなく、「分断を正当化する道具」として機能してしまいかねません。本来、異なる人々が共に生きるためには、相互の妥協や理解、あるいは時に衝突を経たうえでの納得形成が必要です。にもかかわらず、“多様性の魔法の言葉”は、そのようなプロセスを飛ばして「認めなければならない」という結論だけを押し付けてしまうのです。
このような危うさを見抜き、丁寧に説明しようとすると、「あなたは多様性に反対なのか?」とレッテルを貼られ、議論そのものが難しくなるという空気も存在します。それこそが「多様性の大義名分化」によって引き起こされた最大の問題であり、民主主義社会における健全な言論の土壌を蝕む要因になっています。

私たちがいま再認識すべきことは、「多様性」は手段であって目的ではないということです。多様性は、より良い社会を実現するための「ひとつの視点」にすぎません。それが唯一絶対の善ではなく、多様性という価値の中にも緊張関係や矛盾があることを認める勇気が必要です。そして何より、「多様性を語る際には、そこに伴う責任や相互性も含めて語ること」が重要なのです。
言い換えれば、違いを認め合うとは、単に「違うね」と言い合うことではなく、「なぜ違うのか」「どうすれば理解できるのか」「どこに共通点があるのか」を探る対話の営みです。そこにこそ、人間らしいつながりや信頼が生まれます。

今後、日本においても、欧米のように「理念としての多様性」から「実践としての共生」への転換が求められるでしょう。見た目の多様さや属性の違いに囚われすぎることなく、「どうすれば人間同士が互いに敬意をもって関われるか」という、より本質的な問いに立ち戻るべきときが来ているのだと思います。
多様性という言葉の背後にあるものを丁寧に見つめ直すことこそが、これからの日本社会における本当の成熟だと、私は考えています。