■「多様性推進」と「幸せ」の乖離 〜制度の言葉と心の現実のズレ〜

近年、日本社会においても「多様性(ダイバーシティ)」の重要性が頻繁に語られるようになりました。企業のCSR活動や行政の基本方針、学校現場の教育方針に至るまで、「多様性の尊重」や「誰も排除しない社会の実現」といった言葉がさまざまな場面で登場しています。一見すると、それは日本社会が成熟し、人権意識や包摂性を高めている証に見えるかもしれません。

しかしながら、「その多様性推進は本当に私たち一人ひとりの“幸せ”に結びついているのか?」という問いを立てたとき、私は素直に「はい」とは答えられません。むしろ、制度としての多様性と、私たちの実感としての幸せの間に、大きな乖離があるように感じます。

■スローガン化する「多様性」

日本では、多様性という言葉が急速に広がった一方で、その意味や背景についての理解が浅いまま、スローガン的に使われている場面が多く見受けられます。例えば、「LGBTQに配慮した企業」「外国人を受け入れる地域社会」など、形式的な枠組みや制度の整備は進んでいるように見えますが、そこで暮らす人々の“心のありよう”はどうでしょうか。

多くの場合、「違いを受け入れましょう」「誰一人取り残さないようにしましょう」といったメッセージは、もはや“正しいこと”として疑う余地のないものになっています。しかし、心の中では「どう接すればいいかわからない」「自分の価値観を否定される気がする」といった戸惑いや疲労感を覚えている人も少なくありません。これが、いわゆる“ポリコレ(ポリティカル・コレクトネス)疲れ”とも呼ばれる現象なんでしょうね。

■「異質さ」と向き合う経験の不足

日本社会は、長いあいだ“空気を読む”文化を大切にしてきました。和を重んじることは社会の安定に寄与してきた一方で、異質なものに対しては、暗黙のうちに距離を置いたり、見て見ぬふりをしたりする傾向も育んできたのです。

たとえば、精神的な障がいを持つ人と自然に接する経験のある人は、まだ少数派です。また、性の多様性に関する情報を学校でしっかり学ぶ機会も乏しく、結果として、偏見や無知からくる戸惑いが根深く残ってしまいます。

制度としての配慮は進んでいるのに、日常生活のなかでの「自然な関わり」や「安心して違いを話せる空気」は、なかなか育っていないのが現状です。

■「幸せ」の実感とつながらない多様性

本来、多様性の推進は、社会に生きる誰もが「自分らしく生きられる」「違いを気にせず安心して過ごせる」という状態を目指すものであり、それはまさに“幸せ”の基盤であるはずです。しかし、日本では多様性と幸せが別々の問題として扱われているように思えます。

行政や企業が発信する言葉の多くは、「多様性は経済成長やイノベーションに貢献する」といった機能的な視点に偏っています。「多様性があるからこそ、私たちは日常に豊かさを感じられる」「異なる人と出会うことで、自分の世界が広がる」といった、感情や実感に根ざした言葉が、もっとあってもいいのではないでしょうか。

「違いを認めましょう」という言葉が、実は無言の“圧”となって、誰もが本音を言えなくなっているとすれば、それは本末転倒です。多様性の推進が、「人と違うことへの不安」を減らし、「誰かと違う自分でもいいんだ」と思える安心感につながらなければ、幸せとは呼べないのではないかと私は思います。

■これから求められる視点:「関係性」と「実感」

多様性が人々の幸せにつながる社会を実現するためには、制度や理念だけでなく、「日常の関係性」や「心の実感」に根ざした取り組みが欠かせません。つまり、「多様性の尊重」ではなく、「多様性との対話」が求められているのです。

学校では、子どもたちが自分の気持ちや背景を語れるような“場づくり”が必要です。企業では、社員一人ひとりが「ここにいてもいい」と感じられる心理的安全性の確保が欠かせません。そして地域社会では、世代や文化、身体的特性などが異なる人々が、自然に出会い、緩やかにつながれるような仕掛けが重要になります。

こうした「心のゆとり」や「人との温かいつながり」が、多様性の真の価値を引き出し、人々の幸せにつながっていくのではないでしょうか。


■おわりに

「多様性推進」と「幸せ」は、本来一体であるべきものです。しかし現状では、制度と実感、理念と暮らしのあいだに、大きな距離があります。そのギャップを埋めるには、私たち一人ひとりが「なぜ違う人と共に生きることが大切なのか」「そのことがどんな幸せをもたらしてくれるのか」を、自分の言葉で語り直す必要があります。

多様性は、「他人のため」ではなく、「自分自身の幸せのため」にこそ大切なものなのだと、私は信じています。