嘘も方弁と申しますが、嘘をつくことの「ある意味」肯定論キャッチみたいなイメージを昔から受けています。対して、「ウソは泥棒の始まり」とも言われていますね。では、ついても良い嘘なんて存在するのでしょうか?曖昧で都合がいい格言だな~と、違和感を昔から感じておりますが、、ちょっと考えてみます。
「嘘も方便」という言葉は、古くから存在する表現であり、目的を果たすためにやむを得ずつく嘘が、場合によっては許容されることがあるという考えを示しているようです。ただし、ここには大きな倫理的な問いが含まれており、単純に「嘘をついて良い」と言えるかどうかは、その状況や動機次第で大きく変わるのですよね。
「嘘も方便」の背景と考え方
「方便」という言葉自体は仏教用語で、真理に導くための手段を指します。したがって「嘘も方便」は、最終的に善い結果をもたらすために一時的な嘘を許容する、という文脈で使われます。例えば・・
他者を守るための嘘:病気の人に過度な心配をさせないために、事実をぼかすことがあります。
サプライズや喜びのための嘘:誕生日パーティーを秘密にしておく、といったケース。
しかし、この言葉を「嘘を正当化するもの」として使うのは危険です。目的が自己利益のためであったり、他者を害するものである場合には、方便の本質とはかけ離れたものになりますよね。
「ついても良い嘘」の存在
「良い嘘」が存在するかどうかは倫理的・哲学的な議論の対象ですが、一般的に次の要素が鍵になると思われるようです。
動機が他者の利益にあるか
嘘の目的が、他者を守るためやより大きな善を実現するためであるならば、一定の許容がされる場合があります。
結果として他者に害を与えないか
嘘が後に他者に不利益をもたらす場合、その正当性は大きく損なわれます。
透明性の回復が可能か
一時的な隠し事であっても、後で真実を明かして誤解を解くことができるかが重要です。
私が感じる違和感について
「嘘も方便」に違和感を感じるのは、言葉が曖昧さを伴うためかもしれません。この格言がしばしば、自己弁護や不正の言い訳として使われるケースがあるからです。本来、倫理的判断はケースバイケースで細かく行われるべきであり、簡単な格言で片付けられるものではありません。
個人的には、「嘘も方便」という言葉は慎重に扱うべきだと感じます。嘘をつく行為は、相手との信頼関係を損なうリスクを伴います。そのため、嘘をつくかどうかの判断は、単に結果だけでなく、そのプロセスや意図、さらに相手がその嘘にどう反応する可能性があるかを考慮すべきです。この表現を「肯定的に捉える」ことには注意が必要ですし、言葉に頼らず、自身の倫理的判断を磨いていくことが大切ではないでしょうか。そのように思います。
そもそも、嘘と方便の相関に無理がある?
嘘と方便を結びつけること自体が「都合の良い誤魔化し」に聞こえる場合もあります。方便は本来、困難な状況を解決するための善意的な手段ですが、嘘はしばしば他者の信頼や情報の透明性を損ないます。この二つを同じ文脈で扱うことには無理がある、という視点もあるのでは?と、思ってしまいます。
しかしながら、完全に市民権を得ているこの格言があるのですから、では、ついて良いウソの定義のようなものはあるのでしょうか?を考えますと・・
●利他性
嘘が純粋に他者の幸福や利益のためであること。
●一時的であること
例えば、最終的には真実を伝えるつもりで、その時点では相手の状況を考慮して嘘をつく場合。
●結果として良い影響をもたらすこと
嘘が長期的に悪影響を及ぼさないこと。
「これらの条件を満たさない嘘は罰金!」そんな決め事ができれば、ユーモアもあって実際には倫理的な指針としても面白いかもしれませんね。罰金という言葉を使うと、「嘘をつくコスト」を強調し、安易な嘘を防ぐ抑止力になるかもしれません。と、あくまでも、私が勝手に考えていますが、、。
哲学的な視点を取り入れる
嘘と道徳のテーマは、まさに哲学的な議論の中心です。例えば、カントの道徳哲学では、「嘘は常に道徳的に間違っている」とされます。一方で、功利主義的な立場(例:ベンサムやミル)では、嘘が他者に利益をもたらすなら許容されると考えられる場合もあります。
こうした哲学的な背景を知ると、「嘘がどのように作用するか」をより深く考える材料になります。また、現代社会では「ホワイトライ」として、無害な嘘を肯定する風潮もありますが、この「無害さ」の基準自体が曖昧なのも問題ですね。調べれば調べるほど『曖昧の池』に潜っていくようです笑。結論が出ないので以上です。