書いてしまえば、言論自由 vs 社会的配慮という構図なんですかね?

ずっと気になっていた事なんですが、ポリコレや社会的配慮がどこまで正当で、どこからが言論や表現を不当に制限するものか、という問題をいくつかの視点から考えてみます。少し難しく、個人的な見解ですので悪しからず、、良ければお読みください。最近、そんなに親しくない方達とお話をする時、ついつい気になってしまうものですから、そのあたりを書いてみます。

1.「配慮」の基準を明らかにする
 何が「差別的表現」なのか、どのような状況で「発言の自由」が優先されるのか、ある程度共通認識を持つことが必要です。あいまいな「傷つける可能性」「不快にさせるかもしれない」「社会的責任」といった言葉だけでは、人々は過度に慎重になるか、逆に無自覚に踏み越えてしまいます。

2.発言者の意図・背景を重視する
 発言をただ「ネガティブ/ポジティブ」「理解できる/できない」で即断するのではなく、その表現がなぜそのような形を取ったのか、発言者が何を意図しているのか、どのような前提を持っているかを考えることが大切です。これによって、誤解が生じていないか、あるいは恐れ・不安から生まれた発言かどうかなどが見えてきます。

3.受け手の感情を尊重しつつ、自由な議論の機会を保つ
 「差別的だ」「配慮が足りない」と感じる人が無視されてよいわけではありません。しかし、その一方で「違和感を感じる」「よく理解できない」と言いたい人が排除されてしまっては、社会の対話が止まってしまいます。相互尊重を前提とした議論を重ねる場が、公共でもオンラインでも、必要だと思います。

4.自主規制・コンテクスト重視
 表現を扱うメディア・芸術の場面では、自主規制や編集上の配慮は不可避です。しかし、それが表現の核心部分を歪めるようであれば、逆に創造性や誠実性を損なう恐れがあります。コンテクスト(文脈)が非常に重要で、同じ言葉・表現でも使う場によって意味や影響が変わります。

5.法律・制度は最終手段として慎重に用いる
 罰則や法令での規制は、「何が許されるか・許されないか」を社会で決める際の明確な線を引く強力な手段ですが、乱用・過剰適用のリスクもあります。まずは教育、啓発、市民間の合意形成を重視するべきです。

6.批判できる自由を守る
 「ポリコレが強すぎる」「理解できない」という立場からの批判それ自体も、構造を健全にするために不可欠です。批判があることで、制度・文化がアップデートされるからです。

「ポリコレ過度」「言論統制感」について思う事

多様性を重んじ、少しでも差別を減らしたいという願いは、現代社会において非常に正当なものです。マジョリティが無自覚に使ってきた用語、描写、慣習の中には、マイノリティを傷つけたり排除したりするものが多く含まれていました。それを是正する過程で、ポリコレは社会の成熟度を測るバロメーターのようにもなっています。

しかし、配慮という名の名の下で、言うべきことが言えなくなる、違和感や疑問を持つ者が発言をひるむ、そういう「言論の萎縮」が生じているなら、それは社会にとっての損失です。異議申し立て、疑問の提示こそが、制度や慣習を改善するための原動力だからです。

特に現代では、SNSなど発言が瞬時に拡散する媒体が普及しており、「炎上」「バッシング」「誤解」が大きなリスクになることを、多くの人が恐れています。そのため、言葉を選びすぎてしまう、あるいは言葉に足を取られて本来言いたいことを伝えにくくなるという現象は、既に日常的に起きていると思われます。

また、「何が差別か」は文化・歴史・社会的背景によって大きく異なります。日本で差別だと感じるかどうか、米国・欧州で問題になった言葉や表現がそのまま問題視されるかどうかは、しばしば異なります。それにもかかわらず、グローバルスタンダードとしてのポリコレ概念がそのまま持ち込まれて、コンテクストを無視して批判や非難が先行する場面も目につきます。

だからこそ、私が理想とするのは、「配慮をする社会」でありながら、「異論・再議論の余地」を認める社会です。完璧な言葉遣いや配慮ばかりを追求して「沈黙」が多くなることは避けたい。言葉は変化し続けるものですし、慣習や常識も時代とともに変わります。過度なポリコレ圧が、それを停滞させる方向に働いてしまえば、本来の目的を逸してしまいます。

最終的に求められるのは、相手の「人としての尊厳」を守ることであり、同時に私たち自身が「考え、疑問を持ち、語る力」を失わないことです。言論には責任がつきものですが、責任という名の怖れが言葉のキャッチボールを止めてしまっては、本来の多様性や社会の包容力は育たないでしょう。

以上、その様に考えます。