― 親という鏡との再会

大人になるというのは、不思議なものです。
 かつて、あれほど鬱陶しく感じていた親の言葉やしぐさが、ある日ふと、自分の中に息づいていることに気づく瞬間があります。朝の食卓での何気ない口調、誰かを注意するときの言い方、あるいは眉間に寄せた皺。そのどれもが、かつての親の姿と重なり、胸の奥を静かに震わせます。
 「もう、叱ってくれる人はいない」――その事実に寂しさを覚えながらも、どこかで「それでも自分の中に、あの人がいる」と感じる。そんな体験は、多くの人にとって“親という鏡”と再会する、人生のひとつの節目なのかもしれません。

■ 叱るという愛情のかたち

 子どもの頃、親に叱られるのは何よりも嫌なことでした。理不尽だと思うことも多かったでしょう。
 「うるさいな」「もう分かってるよ」――そんな言葉をぶつけたことがある人は、少なくないと思います。
 しかし不思議なもので、時間が経つと、あの“叱る”という行為が、単なる小言ではなかったことに気づきます。そこには、子を思う不器用な愛情が込められていたのだと。
 「ちゃんとしなさい」と言うその裏には、「幸せでいてほしい」「人に迷惑をかけずに生きてほしい」という願いがありました。
 叱るというのは、愛情のエネルギーを伴う行為です。無関心な人は、叱りません。関わることを諦めた人は、黙って離れていくだけです。
 だからこそ、叱ってくれた親の存在は、今になって思えば、何よりも有り難いものでした。叱られることが煩わしかったのは、まだその愛情の重さを受け止める器が、自分の中に育っていなかっただけのことだったのでしょう。


■ 「あの声」が残してくれたもの

 親がいなくなっても、その声は不思議と消えません。
 たとえば、何かを怠けそうになったとき、「あんた、そんなことでいいの?」と聞こえる気がする。
 あるいは、他人の苦労に無関心になりそうな自分に、「人の痛みを想像しなさい」と、心の中で諭されるような感覚になる。
 それは幻聴ではなく、“内なる親”が息づいている証拠なのだと思います。
 心理学では「内的対象」と呼ばれる概念があります。人は大切な他者との関わりを通して、その人の存在を心の中に取り込み、自分の一部として生き続ける――という考え方です。
 親の声、表情、仕草。そうした断片が、私たちの人格の中に静かに沈み、人生の節々で姿を現します。
 つまり、「叱ってくれた人がいなくなっても」、実は完全に失われたわけではないのです。私たちの中で、叱る人と叱られる人、その両方が共に生きているのです。


■ 「親の口調で叱る自分」に気づいたとき

 ある時、子どもや後輩を注意している自分の声が、驚くほど親に似ていることに気づく瞬間があります。
 「まったく、あなたも…」という言い回しや、ため息の仕方までそっくり。
 思わずハッとして、心の中で苦笑いを浮かべる。「あぁ、結局、あの人の子なんだな」と。
 そうした瞬間には、遺伝子ではなく“記憶の継承”が確かに存在しているように思えます。
 親から受け継ぐのは、姿形や体質だけではありません。価値観、習慣、物事の受け止め方――そうした無形のものこそが、最も深く、確かに伝わっているのです。
 叱り方ひとつにしても、その奥にある「何を大切に思っているか」が反映されます。
 つまり、叱るとは“教育”であると同時に、“文化の伝承”でもあるのです。


■ 後悔という名の「再会」

 親を亡くして初めて、「もっと話しておけばよかった」「あの時、素直に謝ればよかった」と後悔することがあります。
 特に、口うるさい親ほど、その不在が大きく響きます。あれほど反発した相手なのに、なぜか心にぽっかり穴があく。
 けれども、その後悔こそが、実は“再会”の始まりなのかもしれません。
 人は、後悔を通して相手の気持ちを理解しようとします。あの時、なぜ叱ったのか。何を伝えたかったのか。
 思い返すたびに、少しずつ相手の心情に近づいていく。
 そうして気づくのです――叱るとは、愛を伝える方法のひとつだったのだと。
 後悔を抱きながらも、その思いを理解へと昇華できたとき、人はようやく「親と和解」できるのかもしれません。
 それは言葉を交わさなくとも、心の奥で静かに交わされる“対話”です。


■ 鏡としての親、そして自分が誰かの鏡になる日

 親は、私たちの“最初の鏡”です。
 親を通して、自分という存在を知り、社会との関わり方を学びます。
 そして、成長するにつれて、今度は私たち自身が誰かの鏡になっていく。
 子ども、後輩、あるいは地域の若者――自分の言葉や態度が、いつか誰かの記憶に残る。
 それは、かつての親がそうしてくれたように、次の世代に“心の種”を渡す営みです。
 だから、叱ることを恐れすぎないでいいのかもしれません。
 厳しさの中にも温かさがあるなら、それはきっと、誰かの人生の支えになる。
 親が私たちにそうしてくれたように。


■ 「親はもういない。でも、生きている」

 年月が経つにつれて、親の存在は“記憶の中の人”になります。
 しかし、それは単なる懐古ではありません。
 ふとした瞬間、判断に迷ったとき、「あの人ならどうするだろう」と思い浮かべる。その問いかけが、今の自分を形づくる道しるべになる。
 つまり、親はもういなくても、私たちの中で生き続けているのです。
 肉体としての存在は失われても、“価値観という遺伝子”は心に受け継がれています。
 「叱ってくれた人がいなくなって」も、叱ってくれた理由を思い出せる限り、その人はまだ生きている。
 むしろ、時間を経て理解が深まることで、あの人の言葉がより豊かな意味を持ちはじめる。
 それは、過去と現在が静かに手を取り合うような感覚です。


■ 記憶の継承としての親子関係

 親子の関係は、血縁だけでは語り尽くせません。
 それは“生き方”の継承であり、“価値の共有”でもあります。
 人は皆、親から受け取った何かを、形を変えて次へ渡していく。
 それは言葉でなくてもいい。
 たとえば、人への思いやり、約束を守る姿勢、働くことの誇り――そんな日常の中にこそ、親の教えが息づいています。
 私たちが誰かに優しくできるとき、あるいは正しいことを選ぼうとするとき、その背後には、かつて叱ってくれた人の存在があります。
 だからこそ、親という存在は「過去」ではなく「現在」でもあるのです。


■ 最後に ― 叱ることの意味を引き継ぐ

 いつの時代も、親子関係は複雑です。
 愛しているのに、うまく伝えられない。叱るのはつらいけれど、放っておけない。
 そんな葛藤を抱えながら、人は次の世代を育てていきます。
 そして、叱ってくれた人がいなくなった今、私たちがその役割を引き継ぐ番なのかもしれません。
 叱るという行為の奥にある「願い」を理解できたとき、人はようやく“受け継ぐ側”から“伝える側”へと変わります。
 親という鏡に映る自分を見つめながら、今度は自分が誰かの鏡になっていく。
 そうして人生は、静かに循環していくのだと思います。

 「親はもういない。でも、確かに自分の中で生きている」
 ――その気づきこそが、最も深い“再会”なのかもしれません。