ありがとうを、間に合ううちに ― 後悔から感謝への時間

 「親孝行したいときに親はなし」――昔から伝わるこの言葉は、年齢を重ねるほど胸に沁みるものです。若い頃はどこか他人事のように聞き流していたその一文が、親の老いと向き合うようになってから、まるで自分に向けられた警鐘のように響いてきます。

 私も例外ではありません。
 親の介護をしていたとき、イライラしてきつい言葉を投げてしまったことが何度もあります。疲労や不安が募る中で、心の余裕をなくしていたのでしょう。いま思い返せば、あのときの母・父の表情が何よりの答えでした。今思うと寂しげで、それでいてどこか諦めたような目。あの視線を思い出すたびに、胸の奥に小さな痛みが走ります。「あのとき、もう少し優しくできたのではないか」――そんな後悔が、ふとした瞬間に顔を出すのです。

 けれど、人は誰もが「そのとき」を懸命に生きています。
 介護をしている最中は、親への愛情も、感謝も、どうしても“義務”や“責任”の影に隠れてしまう。あの頃の私は、ただ一生懸命でした。だからこそ、過去の自分を責めるよりも、あのときの自分の“精一杯さ”を、今は静かに受け止めようと思っています。とは言うものの、事ある度に頭に浮かびます。


 「子は親の背中を見て育つ」と言います。
 私も三人の息子を、家内とともに育てました。彼らが幼いころは、仕事に追われながらも、なるべく家族の食卓には顔を出すよう心がけていました。正直に言えば、多少の「悪い事」もやってみたり、起業後は家のお金を仕事で使ったり、到底理想の父親とはほど遠かったと思います。叱ることも多く、優しい言葉よりも厳しい指導が先に立つような日々。それでも子どもたちはそれぞれに家庭を持ち、いまでは立派に“親”という立場になりました。

 最近、長男がふと口にした言葉があります。
 「親父もあの頃、大変だったんだなって、今になってわかるよ。」
 その一言に、私は不意を突かれたような気がしました。
 子どもというのは、不思議なもので、親の苦労を理解するのに何十年もかかることがあります。私自身も、まさにそうでした。母が毎朝早く起きて弁当を作ってくれていたこと、父が遅くまで働いて帰ってきても、私の話を黙って聞いてくれたこと。そのありがたみを心の底から感じるようになったのは、親を見送った後のことでした。

 “親の姿”というのは、記憶の中で時間をかけて熟していくものなのかもしれません。
 生きているうちは近すぎて見えなかったものが、離れてからようやく輪郭をもつ。まるで遠くの山が夕暮れの光で浮かび上がるように、親の存在は、歳月という光を浴びて初めてその偉大さを映し出すのです。


 後悔とは、ある意味で“愛情の証”です。
 本当にどうでもいい相手に対して、人は悔いを残したりはしません。
 「もう少し何かしてあげられたかもしれない」という思いは、その人を想い続けている証拠です。だから私は、後悔を“優しい痛み”として受け止めるようにしています。

 ある時、知人の僧侶がこう言いました。
 「後悔というのは、感謝の言葉が間に合わなかった痛みなんです。」
 なるほど、と思いました。言葉にできなかった“ありがとう”が心の底に溜まり、それが後悔の形をとって浮かび上がるのです。もしそうなら、その後悔を抱えて生きることは、決して悪いことではありません。それは“忘れない”という祈りのようなもの。私たちは、後悔を通して親の愛を思い出し、自分の中に受け継いでいくのだと思います。


 いま、私の息子たちはそれぞれの家庭を持ち、子どもを育てています。
 彼らが小さな子どもに手を焼いている姿や、進路について考えている姿を見ると、ふと昔の自分と重なります。叱り方も、心配の仕方も、どこか似ている。
 親はいつの間にか、子どもの中に息づいているのです。

 先日、孫の一人が私にこんなことを言いました。
 「おじいちゃんって、いつも“ありがとう”って言うね。」
 無意識のうちにそう口にしていたのでしょう。でも、その言葉を聞いて私は少し嬉しくなりました。
 きっと、もう会えない親に言えなかった“ありがとう”を、私はいま、周りの人に伝えているのだと思います。後悔は、感謝に変えられる。そう気づかせてくれたのは、親の存在そのものでした。


 「ありがとう」という言葉には、時間を越える力があります。
 生前に言えなかったとしても、心の中で何度も言い直せばいい。
 声に出せなかった思いを、今の自分の行動で表していけばいい。

 たとえば、誰かに親切にすること。
 小さなことでも構いません。電車で席を譲ること、道に迷っている人に声をかけること、家族に「おかえり」と笑顔で言うこと。
 そうした行動の一つひとつが、親から受け継いだ“生き方の種”なのだと思います。親が私たちに残したものは、財産や言葉ではなく、そうした“人としてのあり方”なのかもしれません。

 親は、いなくなっても消えるわけではない。
 私たちの中に残り、次の世代へと息づいていく。
 それが「継承」という形であり、人間の連なりの尊さです。


 もし今、親がまだ健在であるなら――。
 どんなに照れくさくても、「ありがとう」と一言伝えてほしいと思います。
 それは決して特別な言葉ではなく、日常の中で交わされる最も素朴な祈りのようなものです。

 そして、すでに親を見送った人も、どうか後悔を抱えたまま心を閉ざさないでほしい。
 その痛みは、あなたが深く愛した証であり、その愛を今度は誰かに向けることができる。
 “間に合わなかったありがとう”は、別の誰かへの優しさとして生まれ変わります。私の様な人間でも、今はこのように思います。


 人生とは、不完全なまま受け継がれていくものです。
 完璧な親も、完璧な子もいません。
 けれど、人は誰かを想い、誰かに想われながら生きている。
 その連なりの中で、「ありがとう」は時を超えて響き合います。

 私は今日も、心の中で静かに呟きます。
 ――親父、おふくろ、ありがとう。
 間に合わなかったかもしれないけれど、今、ようやく言えました。
 そして、この言葉を次の世代に手渡していきます。